略歴 | ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ Alessandro Moreschi "L'angelo di Roma"

略歴

1858年、ローマ近郊の町、モンテ・コンパトリに生まれる。

 

1871年、サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会附属の音楽学校の生徒となる。

 

ここで、宗教音楽の作曲家でオルガン奏者であった、ガエターノ・カポッチの指導を受ける。

 

1873年、カポッチが聖歌隊指導者をつとめていた、サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の聖歌隊にソプラノとして採用される。

 

やがてこの聖歌隊でソリストを任されるようになる。

 

また、カポッチが集めたソリストからなる声楽アンサンブルの一員として、ローマの上流階級のサロンで歌う。

 

グノー作曲 歌劇《ファウスト》のマルガリーテのアリア「宝石の歌」を歌った記録が残っている。

 

1878年にイタリア王国の初代国王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の葬儀で歌ったとする説もある。

 

「ローマの天使」と呼ばれるようになったのは、ベートーヴェンのオラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』のセラフィム役を歌い、素晴らしい歌唱力を披露したためである。

 

1883年、システィーナ礼拝堂聖歌隊に採用される。

 

当時聖歌隊で終身指揮者の地位にあったドメニコ・ムスタファに実力を認められたためと言われる。

 

ここでもやがてソリストを任命される。

 

1898年には指揮者もつとめるようになる。

 

1900年、フランスのリヨンで開催された「ベートーベン記念祭」に招聘される。また、イタリア王国2代目国王ウンベルト1世の葬儀で歌った。

 

1902年と1904年にグラモフォンに録音を残しており、この音源は現在CD化され1枚のアルバムとして発売されている。

 

1913年、ムスタファの死の翌年、以後30年間の恩給を約束され、システィーナ礼拝堂聖歌隊を引退。

 

その後サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊に招かれる。

 

1914年、現役をしりぞく。引退後もローマに住み、後進の指導にあたった。

 

1922年、4月21日未明にローマで死去。

 

死因はおそらく肺炎で、死の直前まで二人の甥が看病をしていたと言われる。

 

葬儀はサン・ロレンツォ教会で執り行われ、ミサの指揮者はシスティーナ礼拝堂聖歌隊指揮者で作曲家のロレンツォ・ペロージが勤めた。

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