原理主義の足音| ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ Alessandro Moreschi "L'angelo di Roma"

1)「セグレターリオ・ポンタトーレ」となる

聖歌隊員としての年数を重ねるうちに、ただ美しい声で歌っていればいいというわけでもなくなってきた。
1891年、アレッサンドロは32歳で「セグレターリオ・ポンタトーレ(segretario-puntatore)」に選出された。
「segretario」はイタリア語で秘書、書記、事務官などを意味し、「puntatore」は「チェックする人」の意である。
その職務内容は主に、礼拝堂の内外で聖歌隊員の行動をチェックすることで、あまりおもしろそうではない。
ただ、セグレターリオ・ポンタトーレを務めた次には、聖歌隊内の管理職的ポストである「マエストロ・プロ・テンポレ」に選出されるのが慣例になっていた。マエストロ・プロ・テンポレは重要な役職だが、音楽的な面より事務的な面での仕事が多かった。

その点ではセグレターリオ・ポンタトーレも同様で、具体的な職務としては、「クインテルネッティ(quinternetti)」という小さなノートに隊員の失点を記録していくというものがあった。
このノートには聖歌隊員の名前が記されており、規則違反のあったメンバーの名前の横に黒丸をつけていくらしい。 
規則違反というのは、「正当な理由以外の欠席」から「音程をはずすこと」まで様々だった。
失点がたまると罰金になった。罰金相当額が給料から差し引かれたようだ。

2)聖歌隊の給与アップと世俗化

1891年は聖歌隊にとって改革の年だった。
人数不足の問題を解消するために、聖歌隊の規則を時代にあわせる必要があったのだ。
上からの改革というよりは、聖歌隊内部にも改革の必要性に対する危機感があったようだ。
1891年1月21日付の聖歌隊の日誌には、
「この礼拝堂は、深刻な財政難を抱えた終焉のとき迫る国に属している」
とある。
ローマ問題」のページの「3) イタリア王国、教皇領を併合」の項に書いたように、教皇領のほとんどをイタリア王国に奪われながら、教皇はイタリア王国からの経済的援助を拒否することを望んでいた。

終身指導者ムスタファは、聖歌隊にかつての栄光と活気を取り戻すため、慣習と組織を変えたいと考えていた。
ムスタファの考えを実際に行動したのは、教皇宮殿の家令として教皇の私的な聖歌隊であるシスティーナ礼拝堂聖歌隊の管理を一任されていたルッフォ・シッラだった。
彼はムスタファの改革案を支持し、聖歌隊と教皇とヴァチカン当局の間で調整役を果たした。
マエストロ・プロ・テンポレの職にあった、モレスキの3年先輩で40歳頃のカストラート、ヴィンチェンツォ・セバスティアネッリともこうした問題についてやりとりした手紙が残っている。

3月7日、教皇レオ13世はシスティーナ礼拝堂聖歌隊の新体制(「レゴラメント(=法規)」と名付けられた)に関する教令集(*1)に署名をした。
この改正により「活動中のメンバー」だけで定員の32人を満たせるようになった。
今までは引退したメンバーも数に含んで、定員を満たしているように見せかけていたのだ。

改正の内容としては、主に給与アップと世俗化、それからカストラートの問題への対応に分けられる。

聖歌隊員の月給は140リラまであがり、世俗のメンバーについては、許可を得ればほかの仕事をして報酬を得てもよいことになった。

聖歌隊にはまだ聖職者のメンバーも残っていたが、世俗のメンバーに対しては、彼らに求められてきた聖職者的な側面がいちじるしく減らされた。
形式上残っていたプリマ・トンスラ(カトリックの聖職者が行う剃髪)は完全に廃止され、ミサの最中を除いて一切聖職者の服装をする必要はなくなった。
また、古くから続いていた独身の掟も撤廃された。ただし独身の掟に関しては、妙な言い回しで記載されている。

第一章D項:
別の理由で不自然である者を除いて、給与の支払を受けている全ての聖歌隊員に共通の義務であった独身の掟を廃止する


聖職者であるメンバーは、当然この義務の免除対象からは除かれる。
「別の理由で不自然である者」とはカストラートのメンバーを指しているのだ。
カトリック教会はいまだ、子孫を残さない性行為をタブー視していた。

*1 教令集
法的な強制力をもつ教皇の文書

3)原理主義「チェチリアニズム」の足音

新しいレゴラメント(法規)には、ムスタファの希望だけでなく別の思惑も影響を及ぼしていた。

この改革が取り扱う問題には給与額や世俗化以外に、カストラートに関する内容があったことは先に述べた。
問題は彼らの人数が次第に減っていく中でソプラノパートの人員をどう確保するかだけではなかった。教会音楽はどうあるべきかという思想的な側面から、彼らの立場はゆっくりと居心地の悪いものになっていったのだが、新法規はその方向性を匂わせるものだった。

かつて自身も有能なソプラノ・カストラートだったムスタファは、聖歌隊指揮者として改革の中心にあったが、彼が望んだことは音楽的なレベルアップと、聖歌隊員の人員増加、そしてシスティーナの伝統を守ることだった。
聖歌隊の世俗化や、カストラート排斥につながる改革を望んではいなかった。

新しい法規では、アレッサンドロが10代のころに学んだサン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会付属音楽学校の生徒たちが聖歌隊に加わることになった。
「アレッサンドロが通った音楽学校」の項に書いたように、この聖歌隊員養成施設は1868年以降少年に特化して指導するようになっていた。
才能ある4人の子供が選ばれて、マエストロ・プロ・テンポレの指導を受けられることになった。この年この職にあったのは、前述したようにセバスティアネッリだ。

また、サンタ・マリア・デッラニマ・グレゴリアン学校の子供たちも補強として加わることになったが、サンタ・マリア・デッラニマ教会は、長年にわたってチェチリアニズム(教会音楽に関する原理主義)の影響下にあった。
これはマエストロ・ムスタファにとって無視できない問題だった。

チェチリアニズムとは18世紀にドイツの教会音楽家たちの間で興った運動で、教会音楽を16世紀半ばの「トレント公会議」で定められた姿に戻そうとする勢力だ(「トレント公会議」については「宗教音楽の歴史」のページを参照)。
詳しくは「チェチリアニズムについて」の章で述べるが、チェチリアニズムはカストラートより、ボーイ・ソプラノを好んだ。
チェチリアニズムにとって重要なのは、美しい音楽ではなくミサの儀式そのものなので、技巧的な装飾をちりばめて歌う必要はなく、ラテン語の歌詞が伝わりさえすれば、歌は多少下手でもよいのだ。
昔のボーイ・ソプラノは現代のように高いレベルにはなかった。
4歳からピアノを習い英才教育を受けた子供などめったにいないし、世界中から優秀な少年が集まったりはしないからだ。

歌手が足りないときには、ほかの3つの大聖堂(サン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂)の聖歌隊から同じ声種の者を借りてくることになった。
だがカストラートの歌手に関しては人数自体が減少しており、システィーナで代わりを務められる者を探すのは困難だった。
こうした場合には結局、ボーイ・ソプラノでおぎなうことが明白だった。

ちなみに、ほかの大聖堂の聖歌隊から歌手を借りる計画は、システィーナ聖歌隊のレベルを下げるとムスタファに不評で、彼はまたモンテファルコに帰ってしまったそうだ。
マエストロは気に入らないことがあると、ストでもするかのように故郷に引っ込んでしまった。体調がすぐれないという理由になっていたようだ。

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