録音にいたる経緯| ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ Alessandro Moreschi "L'angelo di Roma"

モレスキは1902年1904年にレコーディングをしており、どちらもグラモフォン社によるものだ。
だが両年とも、グラモフォン社はモレスキのレコーディングを目的としてヴァチカンにエンジニアを派遣したわけではない。
その録音にいたる経緯を以下に述べる。

1)1902年

1902年3月11日、英グラモフォンのウィリアム・バリー・オーウェン(「アナログレコードの歴史」参照)は、ミラノのスカラ座で歌劇《ゲルマニア》に出演していたエンリコ・カルーソー(1873-1921 テノール歌手)を聴いて感銘を受け、ミラノ支店のディレクター、ミヒャエリスにレコードを作るよう指示すると共に、レコーディングマネージャーとして、英グラモフォン社のアメリカ人録音技師フレッド・ガイズバーグをイタリアへ赴かせた。

録音の打診を受けたカルーソーはスケジュールがふさがっていたので、春の終わりに、と回答した。カルーソーを待つ間に彼らはローマへ赴いた。ヴァチカン側へは、教皇レオ13世の肉声を録音したいと嘆願する手紙を出してあった。

ガイズバーグらは4月初めにヴァチカンに到着したが、高齢の教皇に録音は無理であると丁重に断られてしまった。だがそのかわり、遠路はるばる訪れた彼らに、教皇の聖歌隊であるシスティーナ礼拝堂聖歌隊の録音が許可された。

そして4月5日と7日にレコーディングが実現した。

左の写真はこのときにシスティーナ礼拝堂の聖歌隊席のところで撮影されたもので、中央に座っているのがモレスキ、左がウィリアム・ミヒャエリス、右がフレッドの弟のウィル・ガイズバーグだそうだ。
ミヒャエリス(1861-1944)はポーランド生まれのドイツ人技師で、1899年から3年間、イタリアのグラモフォン社で共同ディレクターを務めていたらしい。
『MORESCHI - THE LAST CASTRATO』(OPAL CD 9823)の解説書には右側の男性はフレッド・ガイズバーグだとの記載があったが、web上の情報ではウィル・ガイズバーグとされているほうが一般的であるようだ。

下の写真は人物部分のみを拡大したものである。 まだ上記解説書では撮影場所がヴァチカン宮殿の階段上となっていたが、システィーナ礼拝堂内部――下の写真では向かって左側の壁に付いている聖歌隊席の下に、彼らは座っていたと考えられる。


(ウィキペディアより)


1903年2月、ジョヴァンニ・ベッティーニという蓄音機の企業家が、93歳の教皇の声を録音した。
その5ヵ月後、教皇は亡くなった。

2)1904年

1904年にヴァチカンにやってきたのは、ガイズバーグ兄弟の仕事を引き継いで、ミラノでカルーソーのレコーディングをしていた、W.シンクラー・ダービーだった。

この前年1903年8月、ヴァチカンでは新教皇ピウス10世が誕生している。
ピウス10世は教皇聖歌隊が歌う教会音楽について、多くの改革をおこなった。
この改革内容については「3) 新教皇ピウス10世による怒涛の改革」に詳しいが、端的に言えば世俗的な旋律や歌い方を廃して、単旋律聖歌と多声音楽を認め、清澄な響きを求めたということだ。
また単旋律聖歌ならよいという大雑把なものでは決してなく、正当なエディションが定められた。

ピウス10世はこの新しいエディションのグレゴリオ聖歌を普及させるためにグラモフォンを招いてレコーディングさせたのだ。
フランツ・ハーベックによれば、
教皇ピウス10世の意図するところは、ひとつは礼拝音楽が達成した成果を保存すること、もうひとつは教会音楽の改革における手本を作成するという目的のためだ」。

1904年4月11日、サン・ピエトロ大聖堂で教皇グレゴリウス1世没後1300周年の追悼ミサがおこなわれた。
これは先立つ3日間、宗教音楽の研究を行っている修道士たちと、音楽家たちによる会議のあとで行われたもので、1904年のレコーディングには、こうした会議の参加者たちのスピーチも含まれている。

だがシンクラー・ダービーは、ローマの滞在期間を縫って、システィーナ礼拝堂聖歌隊の演奏を録音した。
彼らがレコーディングのために歌った音楽は、改革によってミサでの使用を禁じられた曲たちであった。
前回に増してモレスキの独唱が数多く録音されているが、彼が録音のために歌った単旋律聖歌は、このたびの改革で違法とされたエディションである。
このときのレコーディングについての詳細は「第2回レコーディング」に記載した。

3)「録音を残した唯一のカストラート」?

モレスキは時に「録音を残した唯一のカストラート」と表現されることもあるが、正確さを期すならば「ソロ名義で商業的なレコードを出した唯一のカストラート」ということになるだろう。

1902年にはソプラノのジョヴァンニ・チェザーリが生きていたし、1902、1904両年ともアルトのドメニコ・サルヴァトーリが聖歌隊に所属している。彼の声はいくつかのナンバーで聴き取ることができる。

と言っても、グラモフォン社は録音に関する詳細な記録を残しているわけではない。
アルトカストラートのサルヴァトーリと思われる声を残された録音から聞き取れることができるものの、モレスキと声質が似ていて、少年アルトとは思われない声の主をサルヴァトーリだと予想しているにすぎない。
当時のシスティーナ礼拝堂聖歌隊には、ファルセッティストも多数在籍していた。
現代のカウンターテナーの発声に耳慣れた我々が、この古いレコードの音質で、アルト・カストラートの声とファルセッティストの声を聞き分けられるかどうかは、定かではない。

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