当時の録音技術について| ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ Alessandro Moreschi "L'angelo di Roma"

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1902年と1904年にシスティーナ礼拝堂の聖歌隊員たちがおこなったレコーディングは、当然ながら現代のものとは大きく異なっている。
まだマイクロフォンがなく、音を電気的に増幅する技術がなかった当時の録音は、現在では「アコースティック録音」、「旧吹き込み」などと呼ばれている。
演奏者に苦労をしいるわりに、できあがったレコードは現実の音色を正確に伝えているとは言い難かった。

1)旧吹き込み体験者談

ボーイソプラノ時代にモレスキに教わっていたドメニコ・マンチーニが、当時の吹き込みに関する言葉を残している。

 

「我々は皆、自分の声がどう聴こえているのか、知るすべがなかった。
だから私は、ある時期の自分の記録として、吹き込みを行うことにした。
だができあがったものは、そんな役を果たす代物ではなかった。
声を吹き込むために変な姿勢で歌わなければならないから、イントネーションまでおかしくなるのだ」

 

「声を吹き込むため」の姿勢というのは、マイクのない時代に音を拾う方法に関係している。
当時の吹き込みの仕組みは、集音器であるメガホン型のラッパに向かって声を出し、ラッパの奥に取り付けられたダイアフラムを振動させ、この振動で記録針を動かし、原盤に直接音溝を刻みこんでいくというものだ。
よって音量が小さいと記録針が動かないので、歌手はなるべく口元をラッパに近づけて歌わなければならなかった。
歌っているときに頭が動いてしまうと、音量が変わってしまうのだ。
それでマンチーニは「声を吹き込むために変な姿勢」をしなければならなかったのだろう。

 

ちなみに入力レベルの調節は、録音ラッパからの距離でのみ行なうことができた。
またこの強い単一指向性のため、合唱曲の録音では、偶然録音ラッパの前に立っていた歌手の声が、独唱者であるかのように際立って録れてしまう。

 

こうした方法で吹き込むと、録音場所の自然なリバーブはほとんど録音されない。
ふだん共鳴の豊かな礼拝堂や教会で歌っているマンチーニやモレスキにとって、できあがったレコードは響きの点でもずいぶん不自然に思えただろう。

 

だが音質が変わってしまうもっと大きな原因は、録音できる周波数帯が非常に狭いことだ。


2)歌声に不利な音質の変化

人間の可聴領域は20〜20,000ヘルツ程度までだと言われているが、初期の吹き込みは165〜2,100ヘルツという限られた周波数帯しか録音できなかった。

 

人間の歌う周波数帯は、バスからハイソプラノまで含めても55〜1,760ヘルツだが、これは倍音を含めない「基音」のみの数値だ。
倍音こそが声の響きをゆたかにし、その音色を決めている。
同じ「ド」の音を発声してもテノールとバスでは音色が異なるし、男性と女性でも異なる。
ピアノとバイオリンの音色の違いは誰もが聞き分けられる。
これらは皆、倍音の違いによるものだ。
どの周波数帯の倍音が多く含まれているかによって、音色が多様に変化する。

 

歌において重要なのは3,000〜6,000ヘルツの周波数帯で、声に輝きと張りを与える。
声楽では、トレーニングによりこうした周波数帯の倍音を声に加えられるようになると、大人数のオーケストラと共演しても、ホールの一番後ろまで声が届くようになる。

 

初期の録音ではこうした帯域が録れないので、ソプラノの声質は実際より細く、薄い響きとなってしまう。
テノールの場合は幾分か恵まれているが、それでも聴く者を高揚させる金属質な響きは3,000ヘルツ付近にあるので、輝きのないこもった音色になってしまう。

 

ここでは声に限って述べたが、バイオリンなどの弦楽器はもっと録音しにくかったそうだ。
ちなみにジャズの古い録音を聴くと、ドラムスがまるでドラムらしくない音になっている。


3)一発録音、真剣勝負

もうひとつ演奏者にとっての大きな違いは、当時の吹き込みは一発勝負だったことだ。
その場で原盤に音溝をカッティングしていくので、失敗したら高価な原盤自体を反故にしなければならない。
電気録音以後はマスターテープに録音し、OKテイクだけをプレスすることができるようになった。デジタル録音ほど自在ではないが、切ったり貼ったりして、良い部分だけをつなげることも可能になったのだ。

 

だがリスナー側からしてみれば、いつも気迫みなぎるライブ録音が聴けるアコースティック録音は、悪い面ばかりではない。

 

こうした録音最初期の時代にも、カルーソーのようにレコードがさらなる人気を呼んだ歌手もいる。
だがコロラトゥーラソプラノとして有名なネリー・メルバは、録音の半分はリリースを許可しなかったと言われる。
またテノールでも、19世紀後半にオペラの舞台で活躍したポーランド人歌手ジャン・ド・レスケ(1850-1925)は、吹き込みを行ったもののその結果に満足せず、その場で原盤を破壊させたという逸話が残っている。

4)アナログレコードの歴史

最後に、レコードの誕生から電気録音の発明までを簡単に振り返ってみる。
レコードの歴史は1877年、エジソンが「フォノグラフ」を発明したことにはじまる。
これは、直径8センチほどの真鍮の円筒に錫箔を貼り、その表面に針で音溝を記録するものだった。
のちの改良で、錫(スズ)は蝋(ロウ)に変更された。いわゆる「蝋管(ワックス・シリンダー)」である。

 

一方1887年、ベルリナーはその後のアナログレコードにつながる円盤型の「グラモフォン」を発明した。
円盤型のほうが大量生産に適していたため、結果的にはエジソンのフォノグラフより普及することとなる。
だが開発当時はまだ再生時間も短く、音楽を録音するには適さなかった。

 

翌1888年、エジソンはフォノグラフを改良し、再生時間は2分となった。
日本にはグラモフォンよりフォノグラフが先に入ってきており、1891(明治24)年、国産第1号の蝋管レコードが作られた。

 

1894年、ベルリナーは本格的なレコードプレスに成功し、再生時間2分間の7インチ盤を制作した。
翌年ベルリナーはレコードの制作と販売をおこなう会社を興し、その名も「ベルリナー・グラモフォン」と名付けた。

 

1897年、ウィリアム・バリー・オーウェンはトレヴァー・ウィリアムスと共にベルリナーから特許を取得し、ロンドンに「ザ・グラモフォン社(英グラモフォン)」を設立した。

 

1902年にヴァチカンを訪れたフレッド・ガイズバーグは、この会社の録音技師兼プロデューサーだった(グラモフォン社の成り立ちについては、HMVのサイトに詳しい)。
ガイズバーグはヨーロッパだけでなく世界中を飛び回り、録音すべき素材を探し、演奏家や芸能者を説得し、吹き込みをおこなった。
もともとピアニストだった彼は、オペラハウスで素晴らしい歌手をみつけては、彼に録音の打診をし、自ら伴奏者を務めてレコードをつくることができた。
1903年には日本にもやって来て、雅楽、能、落語など伝統芸能の録音をおこなった。
このレコードはアメリカでプレス後日本に輸入され、「平円盤」と名付けて発売された。

 

1904年、ビクター・トーキングマシン社から12インチレコードが発売されると、再生時間はそれまでの3分程度から4分半まで拡大された。
日本では1909(明治42)年、日米蓄音器製造株式会社が日本初の円盤レコードと円盤式蓄音機の製造をはじめた。

 

1925年、ラジオ放送がはじまると、レコードが売れなくなるのではないかと心配された。
現代では考えられないことだが、当時の録音技術ではレコードよりラジオのほうが、雑音が少なかったからだ。
だがちょうどそのころ、マイクロフォンを使用した電気録音が開発され、アコースティック録音よりはるかに高音質のレコードを制作できるようになったのだ。


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