ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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モレスキが生まれた頃イタリア半島には、サルデーニャ王国を中心にリソルジメントの嵐が吹き荒れていた。
その成果としてのイタリア王国は1861年3月、モレスキが2歳のときに成し遂げられるが、彼が育ったモンテ・コンパトリは、ウィーン体制下のまま教皇権によって統治されていた。
教皇が世俗の統治権を失うのは1870年であり、モレスキはその翌年、声楽の勉強のために教師ロザーティと共にローマへやってきた。

 

リソルジメントとは、19世紀のイタリアにおける独立・統一のための運動で、ナポレオン戦争後のウィーン会議からはじまったとされている。
そのためここでは(「音楽史」の章との関連も含め)、フランス革命から記述した。

1) 王政復古

 

1789年、フランス革命が起こった。
革命は絶対君主政治を否定し、貴族と聖職者という特権階級からその社会的特権を奪い、身分の平等を達成するための、ブルジョアジーの闘争のはじまりだったと言える。
この革命の原理を基礎にヨーロッパを組織しようとしたナポレオンは、軍事的才能に恵まれており、ほとんど全ヨーロッパを支配下におくことに成功した。
しかしヨーロッパ諸国の保守的な君主たちは同盟を組織し、1815年、ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち負かすことに成功する。
1815年のウィーン会議において、イギリスを除く戦勝国は「神聖同盟」を結んだ。
ナポレオン時代に王権を剥奪された君主たちは、戦後再び王位についた。

 

これはイタリアの諸地域においても適用され、王政復古がおこった。
教皇領はもちろん教皇に戻された。
ピウス7世はナポレオンと対立したためフランスに幽閉されていたが、1814年ローマに戻った。
教皇領は、アドリア海沿岸などの一部地域を除いて、ナポレオン戦争以前の保守的な封建社会に陥った。この傾向は特に、ローマを含むラツィオ地方、内陸のウンブリア地方で顕著だった。
イタリア半島のほかの地域(ロンバルディア、ヴェネト地方)では産業革命がはじまっていたが、ラツィオ地方などでは工業はほとんど見られず、伝統的な手工業さえ危機に瀕していた。
教皇庁は、道路、水路、鉄道などを整備することに関心を向けず、自由貿易的方策をとることもなかった。

 

1823年に選出されたレオ12世、1831年に選出されたグレゴリウス16世の時代は更に、抑圧的・警察的な支配体制で、民衆教育のような重要な社会問題に対する関心が薄く、出版物に対する検閲も厳しいという、反動的な政治がおこなわれた。
経済的発展においても、1846年にピウス9世が選出されるまで革命的運動が抑圧されていたので、経済は沈滞していた。
教皇領はほかのイタリア諸地域の中でも貧しい人が多く、250万人という人口のうち40万人以上が浮浪者であったと言われている。


2) イタリア統一に向けた戦い

しかし一度人々の意識に浸透した自由・憲法・民主制の理念は消えることなどなく、王政復古に対する闘争がはじまった。
イタリアにおいては1920年代のナポリ、ピエモンテをはじめとした革命運動が起こるが、オーストリアの支援を受けた反動勢力に鎮圧された。

 

1846年に選出されたピウス9世は、ほかのイタリア君主たちより自由主義的であり、教皇庁を中心としてイタリア統一を目指す穏和派が存在した。
しかし1848年4月の教皇教書において、ピウス9世は第一次独立戦争を非難したので、「自由主義的・愛国的なピウス9世」という神話は崩壊した。

 

イタリアの独立・統一を目指した運動家の中で重要なのは、1831年に「青年イタリア」を組織したジュゼッペ・マッツィーニである。
彼は「ローマ共和国」を建設するが、ピウス9世を復位させるためにフランス軍が介入し、共和国は短命のうちに崩壊した(1849年)。
マッツィーニは理想主義者だったので、人々の意識を鼓舞することに成功したが、現実的なイタリア統一は、サルデーニャ王国のサヴォイア王家と首相カヴールを中心におこなわれた。

3) イタリア統一の三傑とイタリア王国成立

イタリアの独立・統一を推し進めた人物として、カヴール、ガリバルディ、マッツィーニの3人が特に重要なはたらきをした。

 

サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、1852年カヴールを首相に任命した。
カヴールは、イタリアをオーストリア支配から独立させるために、クリミア戦争に参戦して英仏軍を支援したり、ナポレオン3世と親密な関係を築いたり、軍事力と経済力を強化したりした。

 

1859年、イタリア統一戦争(第二次独立戦争)では、ナポレオン3世率いるフランス軍の支援を受け、オーストリアからロンバルディアを獲得した。

 

1860年、サヴォイア、ニースをフランスに割譲するかわりに、中部イタリア(エミリア、トスカーナ)を併合する。
同年、「青年イタリア」のメンバーでもあったガリバルディは赤シャツ隊(千人隊)を率いて、南イタリアを占領した。ブルボン朝から奪った両シチリア王国は、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上された。

 

両シチリア王国併合の国民投票に続いて、ウンブリアとマルケ併合の国民投票がおこなわれた。
どの地方でも併合が圧倒的に支持された。
これにより1861年、イタリア王国が成立し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が王位についた。
この時点で統一されていなかったのは、ヴェネト地方(ヴェネチア)と教皇領であった。
ヴェネト地方(ヴェネチア)は1866年、プロイセンとオーストリアの戦争の際に、プロイセンに加担することによって、獲得された(第三次独立戦争)。


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