1)モレスキ「独唱リーダー」となる
1886年28歳になるモレスキは、15歳年上のソプラノ歌手ジョヴァンニ・チェザーリから、「ディレットーレ・デイ・コンチェルティスティ(Direttore dei concertisti)」という地位を引き継いだ。
Direttoreは監督、管理役などを意味する。
また、concertistiはconcertista(独奏者、独唱者)の複数形である。
よって直訳すると「ソリストたちのディレクター」などとなるが、適切な訳語がみつからなかったので、「独唱リーダー」としておく。
独唱リーダーはソリストの中でもさらに責任が重く、言うなればもっとも目立つポジションだ。
その任務のうちでもとりわけ重要なものは、礼拝においてすべての短詩と応唱を導く役目を担うことだった。
この役目はいつも、聖歌隊一の美声を持つソプラノが引き受けてきたようだ。終身指導者まで務めたムスタファも、長い間この職にあった。
1904年に録音されたグレゴリオ聖歌は、こうした務めのひとつである。
これは聖週間に歌われる「エレミアの哀歌」だが、暗闇の中で幕をあけるテネブレの儀式において、彼はこのソロを歌いだす役目を担った。
また古い時代の聖歌は、独唱と合唱の対比で構成された曲が多かったし、最近作曲されたものも含め、複数のレパートリーに独唱や重唱の部分があった。
システィーナ礼拝堂聖歌隊のレパートリーは、大きく3つにわけられる。
1つはグレゴリウス1世が編纂したとされているグレゴリオ聖歌。
2つめはパレストリーナ、ヴィクトリア、アレグリ、マルチェッロなど16〜18世紀の作曲家の作品。
マルチェッロはバロック時代の作曲家だが、ルネサンス後期のパレストリーナの様式を模倣して書かれている。
1904年に録音されたヴィクトリアのインプロペリアはここに該当する。
こうした時代の合唱曲はほかにもいくつか録音されているが、OPAL盤には収録されていない。ソロがないため割愛されたようだ(管理人はTruesound Transfers盤で聴いた)。
最後に19世紀の作曲家の作品があげられる。
モレスキが残したレコードはここに分類されるものが多い。
ジュゼッペ・バイーニ(1775-1844)やムスタファなど、礼拝堂聖歌隊で指揮者を務めた音楽家の作品がもっとも演奏された。
録音が残っている「Messa di san bonaventura」や「Laudate pueri Dominum」を作曲した、ラテラーノ大聖堂の音楽責任者で、スコーラ・カントルム(音楽学校)時代にモレスキの指導にあたったガエターノ・カポッチもここに含まれる(テノールのアントニオ・コマンディーニがソロを務める「Laudate pueri Dominum」はOPAL盤には収録されていない)。
また、1879年から礼拝堂聖歌隊でバスパートを歌っていたエミーリオ・カルツァネーラの作品もここに含まれる。彼は1904年に録音された「Oremus pro Pontifice」を作曲している。
バイーニ、ムスタファ、カポッチなどはオペラ的な音楽を書いたが、パスクアーリのようにパレストリーナの様式を踏襲しようとした作曲家もいる。
Direttoreは監督、管理役などを意味する。
また、concertistiはconcertista(独奏者、独唱者)の複数形である。
よって直訳すると「ソリストたちのディレクター」などとなるが、適切な訳語がみつからなかったので、「独唱リーダー」としておく。
独唱リーダーはソリストの中でもさらに責任が重く、言うなればもっとも目立つポジションだ。
その任務のうちでもとりわけ重要なものは、礼拝においてすべての短詩と応唱を導く役目を担うことだった。
この役目はいつも、聖歌隊一の美声を持つソプラノが引き受けてきたようだ。終身指導者まで務めたムスタファも、長い間この職にあった。
1904年に録音されたグレゴリオ聖歌は、こうした務めのひとつである。
これは聖週間に歌われる「エレミアの哀歌」だが、暗闇の中で幕をあけるテネブレの儀式において、彼はこのソロを歌いだす役目を担った。
また古い時代の聖歌は、独唱と合唱の対比で構成された曲が多かったし、最近作曲されたものも含め、複数のレパートリーに独唱や重唱の部分があった。
システィーナ礼拝堂聖歌隊のレパートリーは、大きく3つにわけられる。
1つはグレゴリウス1世が編纂したとされているグレゴリオ聖歌。
2つめはパレストリーナ、ヴィクトリア、アレグリ、マルチェッロなど16〜18世紀の作曲家の作品。
マルチェッロはバロック時代の作曲家だが、ルネサンス後期のパレストリーナの様式を模倣して書かれている。
1904年に録音されたヴィクトリアのインプロペリアはここに該当する。
こうした時代の合唱曲はほかにもいくつか録音されているが、OPAL盤には収録されていない。ソロがないため割愛されたようだ(管理人はTruesound Transfers盤で聴いた)。
最後に19世紀の作曲家の作品があげられる。
モレスキが残したレコードはここに分類されるものが多い。
ジュゼッペ・バイーニ(1775-1844)やムスタファなど、礼拝堂聖歌隊で指揮者を務めた音楽家の作品がもっとも演奏された。
録音が残っている「Messa di san bonaventura」や「Laudate pueri Dominum」を作曲した、ラテラーノ大聖堂の音楽責任者で、スコーラ・カントルム(音楽学校)時代にモレスキの指導にあたったガエターノ・カポッチもここに含まれる(テノールのアントニオ・コマンディーニがソロを務める「Laudate pueri Dominum」はOPAL盤には収録されていない)。
また、1879年から礼拝堂聖歌隊でバスパートを歌っていたエミーリオ・カルツァネーラの作品もここに含まれる。彼は1904年に録音された「Oremus pro Pontifice」を作曲している。
バイーニ、ムスタファ、カポッチなどはオペラ的な音楽を書いたが、パスクアーリのようにパレストリーナの様式を踏襲しようとした作曲家もいる。
2)プリマドンナも逃げ出す評判?
教皇聖歌隊のメンバーは下位聖職者という位置づけだったので、チケット代を受け取ってコンサートを催すことは禁じられていた。
だが私的な集まりで歌うことは許されていたので、モレスキは賓客を招いたホテルの一室や、上流階級の貴婦人が催すサロンで、歌声を披露していた。
そうした場では、オペラ界の人気歌手と共演することも多かった。
おそらく1889年のことだが、モレスキはロシア・ホテルでフランチェスコ・マルコーニとアントニオ・コトーニと共に私的なコンサートに出演している。
ロシア・ホテルは、ローマの入り口ポポロ広場近くに現在も建っている。
マルコーニは、歌劇《カヴァレリア・ルスティカーナ》で有名な作曲家、マスカーニ(1863-1945)のお気に入りだったテノールだ。
また、コトーニは国際的なキャリアを築いたバリトンで、ヴェルディからも絶賛されていた。彼はカポッチが集めた声楽グループでも、モレスキと共演している。
このコンサートでは当初、女性のソプラノ歌手も歌うことになっていたが、彼女はモレスキと比較されることを恐れ、姿を現さなかった。
だが私的な集まりで歌うことは許されていたので、モレスキは賓客を招いたホテルの一室や、上流階級の貴婦人が催すサロンで、歌声を披露していた。
そうした場では、オペラ界の人気歌手と共演することも多かった。
おそらく1889年のことだが、モレスキはロシア・ホテルでフランチェスコ・マルコーニとアントニオ・コトーニと共に私的なコンサートに出演している。
ロシア・ホテルは、ローマの入り口ポポロ広場近くに現在も建っている。
マルコーニは、歌劇《カヴァレリア・ルスティカーナ》で有名な作曲家、マスカーニ(1863-1945)のお気に入りだったテノールだ。
また、コトーニは国際的なキャリアを築いたバリトンで、ヴェルディからも絶賛されていた。彼はカポッチが集めた声楽グループでも、モレスキと共演している。
このコンサートでは当初、女性のソプラノ歌手も歌うことになっていたが、彼女はモレスキと比較されることを恐れ、姿を現さなかった。
3) モレスキの世俗曲のレパートリー
こうした私的なコンサートでは、若いころグノー作曲《ファウスト》のマルグリートのアリア「宝石の歌」を披露したように、モレスキは世俗曲を歌っている。
のちにムスタファの後任指導者となるペロージはこの時期、モレスキがドニゼッティのオペラ《ラ・ファヴォリータ》のアリアを歌っているのを聴いている。1888年、ペロージ16歳、モレスキ30歳の時の話だ。
彼が歌っていたのは《ラ・ファヴォリータ》よりレオノーラのアリア「ああ、私のフェルナンド(O mio Fernando)」や、ヴェルディのオペラ《ナブッコ》より高度なコロラトゥーラのテクニックが要求されるアビガイッレのアリアなどである。
レオノーラ役はメゾ・ソプラノのために書かれている。彼はハイ・ソプラノの音域だけでなくメゾの中低域も歌いこなしていたようだ。
またアビガイッレ役はソプラノのために書かれたとはいえ、超高音から低音まで幅広い音域が要求されるから、広い音域を披露するのに適していたのだろう。
この役は超絶技巧系といっても、愛らしく純真なマルグリートのアリアとは反対に、怒りや悲しみを情熱的に歌い上げる力強いものなので、アレッサンドロが年齢と共に幅広い表現力とレパートリーを身に付けていたことが分かるとクラプトン氏が書いていたが、ゲルト・ユッカー氏の本では、アビガイッレ役もマルグリート役もドラマティック・コロラトゥーラ・ソプラノに分類されていた。
ところで現代のカウンターテナーや男性ソプラノならば、世俗曲のレパートリーとしてまず思い浮かぶのは、ヘンデルのオペラ《リナルド》や《オルランド》などに代表されるバロック・オペラのタイトル・ロールのアリアだろう。
しかし1880年代には、前世紀の華美なバロック様式など時代遅れで退屈なものでしかなかった。
それどころかロッシーニの《タンクレディ》のようなオペラ・セリアでさえ、流行最先端のサロンでは喜ばれなかったのだ(ロッシーニのセリア作品では、カストラートが主役を務めたバロック時代の伝統を踏襲して、ヒーロー役がアルトやメゾの声のために書かれている。実際には女性歌手が男装して歌った)。
ロッシーニは《セビリアの理髪師》のようなブッファの作曲家としてのみ、その名を知られていた。
のちにムスタファの後任指導者となるペロージはこの時期、モレスキがドニゼッティのオペラ《ラ・ファヴォリータ》のアリアを歌っているのを聴いている。1888年、ペロージ16歳、モレスキ30歳の時の話だ。
彼が歌っていたのは《ラ・ファヴォリータ》よりレオノーラのアリア「ああ、私のフェルナンド(O mio Fernando)」や、ヴェルディのオペラ《ナブッコ》より高度なコロラトゥーラのテクニックが要求されるアビガイッレのアリアなどである。
レオノーラ役はメゾ・ソプラノのために書かれている。彼はハイ・ソプラノの音域だけでなくメゾの中低域も歌いこなしていたようだ。
またアビガイッレ役はソプラノのために書かれたとはいえ、超高音から低音まで幅広い音域が要求されるから、広い音域を披露するのに適していたのだろう。
この役は超絶技巧系といっても、愛らしく純真なマルグリートのアリアとは反対に、怒りや悲しみを情熱的に歌い上げる力強いものなので、アレッサンドロが年齢と共に幅広い表現力とレパートリーを身に付けていたことが分かるとクラプトン氏が書いていたが、ゲルト・ユッカー氏の本では、アビガイッレ役もマルグリート役もドラマティック・コロラトゥーラ・ソプラノに分類されていた。
ところで現代のカウンターテナーや男性ソプラノならば、世俗曲のレパートリーとしてまず思い浮かぶのは、ヘンデルのオペラ《リナルド》や《オルランド》などに代表されるバロック・オペラのタイトル・ロールのアリアだろう。
しかし1880年代には、前世紀の華美なバロック様式など時代遅れで退屈なものでしかなかった。
それどころかロッシーニの《タンクレディ》のようなオペラ・セリアでさえ、流行最先端のサロンでは喜ばれなかったのだ(ロッシーニのセリア作品では、カストラートが主役を務めたバロック時代の伝統を踏襲して、ヒーロー役がアルトやメゾの声のために書かれている。実際には女性歌手が男装して歌った)。
ロッシーニは《セビリアの理髪師》のようなブッファの作曲家としてのみ、その名を知られていた。