1) ムスタファの引退
1902年5月31日、ローマで出版された風刺的な雑誌『Il Travaso delle Idee』に、ペロージの改革とムスタファの事実上の引退に関する記事が載っている。
「数ヵ月前から必要性が議論されているこの改革により、現在のソプラノは年少のパレストリーナ歌手に置き換わるだろう」
名誉終身指導者となったムスタファについては、
「システィーナの指導者ムスタファ氏は、引退の条件として"白声"の維持のみならず、システィーナ礼拝堂の組織をあらゆる点においてそのままにしておくことを求めた」
「白声(Voce bianca)」とは通常ボーイソプラノを指す。この言葉には「思春期前」という含みがあるだけでなく、清浄というイメージも喚起される。
そして“カストラート”という単語を使うのを避けるため、婉曲表現としても使われた。
高音を少年に置き換えようとしているこの時期に維持を訴えるのだから、ここではカストラートを雇うことについて言っているのだろう。
「白声」という呼称については、モレスキの弟子でファルセッティストだったジョヴァンニ・ガヴァッツィが、師の歌唱を讃えたときに、
「それを白声と呼ぶ人もいるようだが、自然が授けてくれた人間の喉による最高に美しいかも知れない声に対して使うべきではない」
と憤りを述べているから、この言葉の意味はほかのイタリア語の単語と同様幅広いようだ。
翌1903年1月25日付で「ラ・ヴェラ・ローマ」紙が、システィーナ聖歌隊員からムスタファへの手紙を掲載した。
「輝かしく誉れある指導者殿
あなたが私たちの終身指導者としての地位を離れられるという覆すことのできない決意をなされたことを知り、私たちはこの上なく深い哀しみにくれています。
55年の長きに渡り、あなたは我々のために崇高な歌唱芸術の指揮者であり、指導者であられました。
そのような方との別れに際し、もっともつらい苦しみを感じていることを隠すことなどできません」
ムスタファの回答も掲載された。
「あなた方と同様に私も告白しなければならない。あなたたちと共に、この人生と芸術の最期の時を迎えたいという、一番大切な願いを心にしまったままにはしておけないということを――。
あなた方の寛大さで、最大限の許しを乞いたい」
ペロージ自身やその才能についても、互いの手紙でふれられているが、公開された文章は威厳が保たれ、今後への不安や不満は微塵も見られない。
2) ペロージの改革の勝利
1902年12月28日付のローマの新聞「ラ・トリブーナ」紙が、ペロージら改革勢力が勝利したことを報じた。
「数ヵ月前に決定されたが今まで伏せられてきた「ex audientia sanctissima」の決定は法令化されたので、すぐに施行されるだろう。この決定により、歌手としては完全でも肉体的には言わば「不完全」である歌手たちは、システィーナ礼拝堂から完全に締め出されることになる。これは礼拝堂に赴任して以来、この改革を推し進めてきたマエストロ・ペロージの勝利を意味する」
ムスタファ引退後、ペロージが単独の指導者としてデビューを飾ったのは、1903年2月7日、ピウス9世没後25周年記念ミサだった。曲は、パレストリーナと同時代の作曲家フェリーチェ・アネリオのレクイエムであった。
聖歌隊の演奏は生気がなく、発音も不明瞭に聴こえたそうだ。
歌手たちは感情表現に欠け、方向性を見失って戸惑っていることに気付く人もいた。
今まで19世紀の劇場音楽と寸分変わらぬ様式で歌ってきた歌手たちにとって、ペロージの理想――清澄な響きを求められるのは、正反対の表現と言っても過言ではないほどの大きな方向転換だった。
それゆえに戸惑って演奏がまとまらなかったとも考えられるし、当時の人の耳にはつまらない歌唱でも、ペロージの宗教音楽の理想には適合していたのかも知れない。
「数ヵ月前に決定されたが今まで伏せられてきた「ex audientia sanctissima」の決定は法令化されたので、すぐに施行されるだろう。この決定により、歌手としては完全でも肉体的には言わば「不完全」である歌手たちは、システィーナ礼拝堂から完全に締め出されることになる。これは礼拝堂に赴任して以来、この改革を推し進めてきたマエストロ・ペロージの勝利を意味する」
ムスタファ引退後、ペロージが単独の指導者としてデビューを飾ったのは、1903年2月7日、ピウス9世没後25周年記念ミサだった。曲は、パレストリーナと同時代の作曲家フェリーチェ・アネリオのレクイエムであった。
聖歌隊の演奏は生気がなく、発音も不明瞭に聴こえたそうだ。
歌手たちは感情表現に欠け、方向性を見失って戸惑っていることに気付く人もいた。
今まで19世紀の劇場音楽と寸分変わらぬ様式で歌ってきた歌手たちにとって、ペロージの理想――清澄な響きを求められるのは、正反対の表現と言っても過言ではないほどの大きな方向転換だった。
それゆえに戸惑って演奏がまとまらなかったとも考えられるし、当時の人の耳にはつまらない歌唱でも、ペロージの宗教音楽の理想には適合していたのかも知れない。
3) 新教皇ピウス10世による怒涛の改革
ムスタファがローマを発ち、モンテフェルコに引退してから数ヶ月もしないうちに、レオ13世は息を引き取った。
1903年7月31日、次期教皇を決める「コンクラーヴェ」のために、枢機卿たちはシスティーナ礼拝堂に集まった。
8月4日、ヴェネチアの総大司教でチェチリアニズムの長年の支持者、ジュゼッペ・メルキオッレ・サルトが圧倒的多数で新教皇に選出された。
彼は1867年から1875年まで、ヴェネチアの北西に位置するサルツァノで教区の神父を務めていたが、当時すでに会衆にグレゴリオ聖歌を歌わせていた。
1895年に彼が記した教書(司教が教区の聖職者に与える文書)には、礼拝の改革を阻むものは、何であろうと許さない厳しい決意が現われている。
「新たな規則により、歌手たちは生計を立てる唯一の手段を奪われ苦しむだろうが、彼らの不満は考慮しない」という文章は、キリスト教の博愛主義や慈悲とは違う側面が垣間見える。
ペロージの終身指導者就任から次第に明らかになっていた歴史の流れは、新教皇ピウス10世が誕生した日、確実なものとなったのだ。
サルトはピウス10世となるとすぐに、改革に着手した。最初の回状「至高の教皇座より」は1903年10月4日付で発布され、その副題は「キリスト教の前事項の復古について」である。
カストラートたちが数百年に渡って作り上げた教会音楽の伝統に終止符を打つ「モトゥ・プロプリオ」は二番目に出された書状で、教会音楽の守護聖人である聖チェチーリアの日(11月22日)にあわせて、教皇答書として発布された。
この書状の中でカストラートの存在は「冒涜的な劇場音楽によって引き起こされる、宗教音楽への致命的な影響」の象徴とされた。歴史的に見れば、女性歌手を禁止する教会音楽の中から、彼らの存在が生まれたにも関わらず。
この答書の中で教皇は、グレゴリオ聖歌と多声音楽こそが神聖な礼拝にふさわしいこと、現代になって作曲された音楽を用いることは冒涜と見なされること、歌は合唱が望ましく独唱が支配してはならぬことを述べ、「いかなる場合にも、ソプラノとコントラルトのパートは、教会の古い伝統に従って少年を雇うことが望まれる」と記している。
教皇はこの改革を徹底すべく、司教総代理のレスピーギ枢機卿に遂行を管理させた。枢機卿自身も、教会音楽の復古を長年にわたって支持してきた人物だ。
12月8日の書状には、当時の礼拝音楽の様子と、ピウス10世がそれをどう見ていたかが現われている。
「かつてローマで聴かれた古様式の美しい伝統は今や聴くことはかなわず、詩篇のテキストに果てしなく付曲されたものが代わりに使われている。
そうした曲はどれも古い劇場音楽を手本にしており、ほとんどが芸術的価値に乏しく、二流のコンサートですら許容できない無味乾燥なものだ。
こうした音楽では、キリスト者の敬虔さも信心も決して高めることはできない。
聡明さに欠ける者は好奇心を満たされるだろうが、多くの人が呆れ、嫌悪し、なぜ今もそのような乱用が許されているのかと首をかしげるだろう。
よって我々は、原因を完璧に根絶することを切望し、総大司教のバジリカ(大聖堂)がこれを先導する」。
また、「能力も経験も不足した者が、聖歌を教え、宗教音楽の指揮を任されている」と細かいところまで指摘している。
翌年1904年1月8日、すべてのバジリカ(大聖堂)で、現代に作曲された音楽を演奏することが禁止された。そこには「少しの例外」もなく、「特にラテラーノにおいて」と但し書きがされている。
ラテラーノ大聖堂では特に、19世紀の音楽が演奏される機会が多かったことがうかがえる。
こうした状況ではあったが、モレスキは職を失うことなく、システィーナ礼拝堂やサン・ピエトロ大聖堂の教皇戴冠式などで歌っていた。
彼はシスティーナ礼拝堂聖歌隊だけでなく、いまだサン・ピエトロ大聖堂のジュリア聖歌隊の一員でもあった。
1903年7月31日、次期教皇を決める「コンクラーヴェ」のために、枢機卿たちはシスティーナ礼拝堂に集まった。
8月4日、ヴェネチアの総大司教でチェチリアニズムの長年の支持者、ジュゼッペ・メルキオッレ・サルトが圧倒的多数で新教皇に選出された。
彼は1867年から1875年まで、ヴェネチアの北西に位置するサルツァノで教区の神父を務めていたが、当時すでに会衆にグレゴリオ聖歌を歌わせていた。
1895年に彼が記した教書(司教が教区の聖職者に与える文書)には、礼拝の改革を阻むものは、何であろうと許さない厳しい決意が現われている。
「新たな規則により、歌手たちは生計を立てる唯一の手段を奪われ苦しむだろうが、彼らの不満は考慮しない」という文章は、キリスト教の博愛主義や慈悲とは違う側面が垣間見える。
ペロージの終身指導者就任から次第に明らかになっていた歴史の流れは、新教皇ピウス10世が誕生した日、確実なものとなったのだ。
サルトはピウス10世となるとすぐに、改革に着手した。最初の回状「至高の教皇座より」は1903年10月4日付で発布され、その副題は「キリスト教の前事項の復古について」である。
カストラートたちが数百年に渡って作り上げた教会音楽の伝統に終止符を打つ「モトゥ・プロプリオ」は二番目に出された書状で、教会音楽の守護聖人である聖チェチーリアの日(11月22日)にあわせて、教皇答書として発布された。
この書状の中でカストラートの存在は「冒涜的な劇場音楽によって引き起こされる、宗教音楽への致命的な影響」の象徴とされた。歴史的に見れば、女性歌手を禁止する教会音楽の中から、彼らの存在が生まれたにも関わらず。
この答書の中で教皇は、グレゴリオ聖歌と多声音楽こそが神聖な礼拝にふさわしいこと、現代になって作曲された音楽を用いることは冒涜と見なされること、歌は合唱が望ましく独唱が支配してはならぬことを述べ、「いかなる場合にも、ソプラノとコントラルトのパートは、教会の古い伝統に従って少年を雇うことが望まれる」と記している。
教皇はこの改革を徹底すべく、司教総代理のレスピーギ枢機卿に遂行を管理させた。枢機卿自身も、教会音楽の復古を長年にわたって支持してきた人物だ。
12月8日の書状には、当時の礼拝音楽の様子と、ピウス10世がそれをどう見ていたかが現われている。
「かつてローマで聴かれた古様式の美しい伝統は今や聴くことはかなわず、詩篇のテキストに果てしなく付曲されたものが代わりに使われている。
そうした曲はどれも古い劇場音楽を手本にしており、ほとんどが芸術的価値に乏しく、二流のコンサートですら許容できない無味乾燥なものだ。
こうした音楽では、キリスト者の敬虔さも信心も決して高めることはできない。
聡明さに欠ける者は好奇心を満たされるだろうが、多くの人が呆れ、嫌悪し、なぜ今もそのような乱用が許されているのかと首をかしげるだろう。
よって我々は、原因を完璧に根絶することを切望し、総大司教のバジリカ(大聖堂)がこれを先導する」。
また、「能力も経験も不足した者が、聖歌を教え、宗教音楽の指揮を任されている」と細かいところまで指摘している。
翌年1904年1月8日、すべてのバジリカ(大聖堂)で、現代に作曲された音楽を演奏することが禁止された。そこには「少しの例外」もなく、「特にラテラーノにおいて」と但し書きがされている。
ラテラーノ大聖堂では特に、19世紀の音楽が演奏される機会が多かったことがうかがえる。
こうした状況ではあったが、モレスキは職を失うことなく、システィーナ礼拝堂やサン・ピエトロ大聖堂の教皇戴冠式などで歌っていた。
彼はシスティーナ礼拝堂聖歌隊だけでなく、いまだサン・ピエトロ大聖堂のジュリア聖歌隊の一員でもあった。