1) ローマへの旅立ち
1870年、千年以上続いた教皇の世俗権は失われ、教皇領はイタリア王国に統治されることになった。
イタリア王国は教皇の自由と不可侵を保障し、教皇の別荘であるガンドオルフォ城、ヴァチカンとラテラーノの教皇庁所有の宮殿などを教皇が所有することを認めたが、当時の教皇ピウス9世はローマ併合自体を認めていなかったので、この取り決めを拒否していた(詳細は「時代背景」の章、「リソルジメントにおけるローマ問題」の項を参照)。
時代は変わった。
去勢手術を受けた少年は今や、ローマに行く以外に職を探すすべはなく、彼は永遠の都で生きることを余儀なくされた。そこで彼を雇う者は教会だけであった。
13歳になるアレッサンドロは、故郷モンテ・コンパトリでの静かな暮らしを捨て、ナザレノ・ロザーティに連れられてローマへ旅立つこととなる。
当時、ローマとフラスカーティは鉄道で結ばれていたが、モンテ・コンパトリまでは伸びていなかったので、ローマは遠く感じられただろう。
1840〜50年代は、英米においては「鉄道狂時代」と言われるほど、蒸気機関車の線路が盛んに建設されたが、教皇ピウス9世は鉄道を「悪魔の仕業」と考えていたので、1856年まで鉄道の建設を許可しなかった。そのため輸送手段も荷馬車が主だった。
1871年、アレッサンドロはローマへ到着したが、よい時期とはいえなかった。
前年の10月2日、時の教皇ピウス9世は統治権を争う住民投票により、イタリア王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に大敗したばかりだった。
こうした不安定な社会情勢下ではあったが、アレッサンドロは聖歌隊員を養成するための音楽学校であるサン・サルヴァトーレ・スコーラ・カントルムへ入学した。
このスコーラ・カントルムはサン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会の付属施設で、18世紀後半に始まり、1902年まで教皇聖歌隊の歌手たちの教育を続けていた。
ローマの権威ある施設の例にもれず、この学校も教皇の後ろ盾を受けていたから、安泰とはいえなかった。
モレスキより4歳年上のカストラート、コスタンティーノ・マッダレーナはここで教育を受け、1870年4月、システィーナ礼拝堂聖歌隊のメンバー候補として名前があがっていたが、イタリア王国によるローマ併合が妨げとなって、話が途絶えてしまった。
2) アレッサンドロが通った音楽学校
サン・サルヴァトーレ・スコーラ・カントルムは長きに渡って聖歌隊員を教育してきたが、1868年以降はピウス9世の要望により、聖歌隊で歌う少年歌手に特化して指導するようになっていた。
これは教皇が、サン・ピエトロ大聖堂で少年歌手たちの素晴らしい演奏を聴いたことが理由になっている。
ローマ中の教会から集められた少年たちが、カストラートを含むプロの歌手たちと共に、ドメニコ・ムスタファ作曲のモテット『Tu es Petrus』を歌ったのだ。
ムスタファはシスティーナ礼拝堂聖歌隊のソプラノ歌手で、終身指導者までを務めた人物だ(ムスタファについては後述)。
サン・サルヴァトーレ・スコーラ・カントルムは年長の学年と年少の学年に分けられており、それぞれが能力別に3つのクラスに分かれていた。
上の学年に進級するときに試験がおこなわれる。
ピアノとヴァイオリンを習うには小額の授業料が必要だったが、声楽の指導は無料で受けられた。
その上生徒たちは、学外の聴衆を招くコンサートで、わずかばかりの報酬を受け取ることができた。
だが一般の人に向けたコンサートで歌われるのは、当時人気のあったオペラからの楽曲で、卒業後彼らが歌うことになる聖歌とはかなりかけ離れていた。
学校で受けた歌劇風の音楽による教育が、モレスキの歌に、時には宗教曲に似つかわしくないほどの劇的な表現力や悲壮感を与えたと考えられる。
実際に生徒たちを教えるのは、ローマの3つの大聖堂の聖歌隊指導者たちだった。
すなわち、サン・ピエトロ大聖堂のサルヴァトーレ・メルッツィ(1813-1897)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のセッティーモ・バッタリア(1815-1891)、そしてサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂のガエターノ・カポッチ(1811-1898)で、この人物がモレスキの師となった。
3) 師匠ガエターノ・カポッチ
ガエターノ・カポッチ(Gaetano Capocci)は、1811年ローマの生まれ。
作曲家、オルガン奏者として活躍し、19世紀ローマの教会音楽に欠かせない人物であった。
サン・ピエトロ大聖堂のオルガン奏者パスコーリに師事し、19歳でサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会のオルガン奏者の職を得る。
1848年には、サンタ・チェチーリア音楽院でオルガン奏者長となっている。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂で音楽責任者となったのは1855年である。
カポッチが宗教曲の作曲家としての名声を確立したのは1850年代のはじめごろで、彼の作風は「ネオ・シアトリカル・スタイル(新劇場風)」と呼ばれ好評を博していた。
ネオ・シアトリカル・スタイルとは、当時イタリアで人気があったベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディなどのオペラ作曲家の作風を彷彿とさせる音楽性を備えていたため、宗教曲でありながらこう呼ばれた。
またカポッチは、若い頃には「リファチメンティ」の名手として聖職者たちに人気があった。
リファチメンティとは、オペラアリアに宗教的な歌詞をあてはめたもので、一種の「替え歌」と言える。
ベネディクト14世(在位:1740-1758)の禁令以来、聖職者たちは道徳的観点から劇場に足を踏み入れることができなかったので、リファチメンティは流行の音楽にふれる大切な機会であった。