1)教皇がグラモフォンを呼んだ理由
若いピウス10世は、レオ13世のように最新鋭のレコーディング技術を、耳をそそのかす不道徳なものだとは捉えていなかった(正確には25歳若かった)。教皇は最新のメディアを利用することにした。
「モトゥ・プロプリオ」によって、理想とする正当な教会音楽を定めた教皇ピウス10世は、グラモフォン社のウィリアム・シンクラー・ダービーをヴァチカンに招いた。
レコードを作ることで、改革の成果を後世に残すだけでなく、正当な教会音楽の手本を示し、世に広めようとしたのだ。
だが現在、1904年にヴァチカンで録音されたディスクは、「最後のカストラート」というタイトルでCDとなり、ピウスの意図とはむしろ正反対に、失われた伝統を今に伝えている。
教皇も、聖歌隊終身指導者のペロージも、カストラート歌手をボーイソプラノに置き換えることを強く望んでいたし、しかもモレスキの歌唱スタイルは、当局の望まない劇場風だったから、彼らはモレスキにソロのレコードを作らせたいとはまるで思っていなかった。
だがモレスキと同僚たちは、禁じられた音楽を後世に残すため、この機会を利用したのだ。
後述するようにこのときのヴァチカンは、会議のために訪れた、改革を唱える”保守的な”修道士たちであふれていた。
その中で時流に逆らう曲も含めて録音したグラモフォンの技師ダービーは、録音場所になるサロンや、演奏者たちのタイムスケジュールをうまく調節したと考えられる。
また、「エレミアの哀歌」やインプロペリアは聖週間の礼拝で歌われる曲だが、聖週間の礼拝は一般に公開されていた。
こうした選曲から、大衆に馴染みのある曲を含めようとしたことがうかがえる。
とはいえエレミアの哀歌からの抜粋――モレスキが歌ったグレゴリオ聖歌は、カトリック圏では発売できなかったのだが。
2) グレゴリウス没後1300年記念ミサ
教皇がグラモフォンを呼んだ演奏は、1904年4月11日にサン・ピエトロ大聖堂で行われた教皇グレゴリウス没後1300年記念ミサだった。
グレゴリウス教皇の本当の命日は3月12日だったが、1904年のこの日は受難節の期間中だったので、1ヶ月遅らせたのだ。
4月8日から10日にかけて3日間、修道士の神学者と音楽家が会議を行ったあと、1,000人を超える大規模な聖歌隊からなる歌ミサが開かれることになっていた。
3日間の会議の出席者に、改革の成果を見せる意図もあり、高声には有能なボーイソプラノが集められた。
またこのミサではローマの神学校で学ぶ若い聖職者たちも聖歌隊に加わった。
ピウス10世は、彼らにグレゴリオ聖歌を学ばせるよう、レスピーギ枢機卿に強く指示していた。
この時点で教皇聖歌隊に残っていたカストラートはモレスキと、セバスティアネッリ(1851-1919、1880年入隊)、サルヴァトーリ(1855-1909、1878年入隊)の3人だったが、彼らもこの大人数の聖歌隊に加わって歌った。
モレスキについていえば、合唱の一員として歌っただけでなく、1902年のより多くのソロを録音することになった。
3) レコードにこめられたモレスキの思い
彼はまず、2年前に人生初レコーディングとなったロッシーニの「Crucifixus」を録りなおしている。1902年の仕上がりには不満だったのだろう。
ソロ曲だけでなくほかのメンバーと四重唱を歌ったり、合唱をバックにソロを歌ったりもしている。
その多くが「モトゥ・プロプリオ」で禁じられたレパートリーだった。
モレスキはグレゴリオ聖歌も録音しているが、これさえ改革で不採用となったエディションを使用している。
「エレミアの哀歌」からの一節を歌うのに、なぜタブーを犯してまで不認可の楽譜を使ったのか―― そのバージョンこそが、彼がソリストとして活動していた数十年間、正当な楽譜として歌っていたものだったからだ。
「モトゥ・プロプリオ」ではグレゴリオ聖歌と共に、パレストリーナの多声音楽も正当な教会音楽として認めた。
モレスキも仲間との四重唱でパレストリーナを歌っているが、この曲の歌詞はつれない恋人をなじるものだ。
パレストリーナを歌っても世俗音楽――マドリガーレを選んだところに、古株の聖歌隊員たちが新教皇の教会音楽改革に何を感じていたかがうかがえる。
モレスキの昔の師だったカポッチ作曲「聖ボナヴェントゥラのミサ曲(Messa di san bonaventura)」は、ロマン派オペラを思わせる劇的で豊かな音楽だ。
この曲でテノール・ソロを歌っているチェザーレ・ボエツィは、オペラ歌手でオペラ作曲家という、教皇聖歌隊員としては異質の経歴の持ち主だった。
彼の手によるオペラは1893年、ヴェネチアのフェニーチェ劇場で初演された一幕物の《ドン・パエズ》である。
またローマのアポロ劇場では合唱指揮も務めていた。
なお、「聖ボナヴェントゥーラのミサ曲」の録音ではモレスキが指揮を務めている。彼は勿論ソプラノ独唱部分も歌っている。
聖歌隊のバス歌手エミリオ・カルツァネーラ作曲「Oremus pro Pontifice」も19世紀らしい親しみやすくロマンチックな旋律で、実は管理人のお気に入りの1曲なのだが、意外なことに指揮を務めているのはペロージである。
ソロと合唱の掛け合いの中で曲が盛り上がっていく様子は感動的で、ペロージが世俗的な曲調の音楽でも指揮の才能を発揮していたのは意外な発見だった。
4) 1904年に録音された曲
1904年に録音された曲は、TT盤で確認できるのは15曲、そのうち6曲はOPAL盤
には収録されていない。
モレスキのソロを確認できる9曲は収められている。
マトリクス番号順に並べると以下のようになる。通常マトリクス番号は通常、録音順に振られるものだ。ただしこのセッションでは、4桁+hと3桁+iの番号は別系統なので、どちらが先かは分からない。
Inno pontificale(教皇讃歌)はオーストリアの作曲家ヴィクトリン・ハルマイヤー(1831-1872)が1857年に書いた曲で、ヴァチカン市国の前国歌だった。
「Marcia trionfale」として知られている。
「聖ボナヴェントゥラのミサ曲(Messa di san bonaventura)」は中間部分のみがOPAL盤
に収録されている。
には収録されていない。
モレスキのソロを確認できる9曲は収められている。
マトリクス番号順に並べると以下のようになる。通常マトリクス番号は通常、録音順に振られるものだ。ただしこのセッションでは、4桁+hと3桁+iの番号は別系統なので、どちらが先かは分からない。
曲 名 |
演 奏 者 |
カタログ |
マトリクス |
|
Crucifixus (小荘厳ミサ曲) |
アレッサンドロ・モレスキ | 52041 | 2182h | |
Pie Jesu | アレッサンドロ・モレスキ | 52042 | 2183h | |
Hostias et Preces | アレッサンドロ・モレスキ | 52043 | 2184h | |
Preghiera | アレッサンドロ・モレスキ | 52044 | 2185h | |
Ave Maria (バッハ/グノー) |
アレッサンドロ・モレスキ | 52045 | 2187h | |
Exsultate iusti (ヴィアダーナ) |
合唱 | 54778 | 2193h | opal無 |
Inno pontificale | 鼓笛隊 | 54793 | 2196h | opal無 |
Incipit Lamentatio (グレゴリオ聖歌) |
アレッサンドロ・モレスキ | 54792 | 2197h | |
聖ボナヴェントゥラの ミサ曲(カポッチ) |
モレスキ、ボエツィ、 ダド、合唱 |
54779、54780、 054755 |
2198h、 2199h、282i |
opal一部 収録 |
Officium hebdomadae sanctae(ヴィクトリア) |
合唱 | 54781 | 2202h | opal無 |
La cruda mia nemica (パレストリーナ) |
SATB (S=モレスキ) |
54788 | 2225h | |
Filiae lerusalem (ガブリエリ) |
合唱 | 054750 | 277i | opal無 |
Oremus pro Pontifice | モレスキ、合唱 | 054737 | 284i | |
Ave Maria (パレストリーナ) |
合唱 | 054758 | 292i | opal無 |
Sicut cervus (パレストリーナ) |
合唱 | 054759 | 293i | opal無 |
Inno pontificale(教皇讃歌)はオーストリアの作曲家ヴィクトリン・ハルマイヤー(1831-1872)が1857年に書いた曲で、ヴァチカン市国の前国歌だった。
「Marcia trionfale」として知られている。
「聖ボナヴェントゥラのミサ曲(Messa di san bonaventura)」は中間部分のみがOPAL盤
に収録されている。