1)グレゴリオ聖歌とは(7世紀頃)
2)多声音楽(ポリフォニー)の進出(10世紀〜)
3)ミサ曲の出現(14世紀)
4)ルネサンス期のミサ曲(15世紀〜)
5)宗教改革とトレント公会議
1)グレゴリオ聖歌の誕生(7世紀頃)
ユダヤ教の時代からすでに、音楽と礼拝は結びついていた。
イエスやその弟子たちが布教をおこなっていた時代にも、歌により神をあがめることが、信徒の大切な行いと考えられていた。
こうした初期教会の音楽がどのようなものだったのか、正確に再現できる資料は残されていない。
だが中世になると教皇グレゴリウス1世(在位590-604)がグレゴリオ聖歌を編纂し、その楽譜が残されているので、後世の人々に繰り返し演奏されることとなった。
グレゴリオ聖歌については、かつてはグレゴリウス1世が作曲したものだと伝えられてきたが、現在の研究では、各地で歌われていた様々な聖歌を集大成し、聖歌集として編纂したものだと考えられている。
かつてはラテン語のテキストに、音程を示す印をつけただけのものだったが、やがてネウマ譜が登場する。
五線譜ではなく四線で、小節線はない。
グレゴリオ聖歌は無伴奏、単旋律で歌われるシンプルなものだが、膨大なレパートリーがある。
カトリック教会ではずっと特別な地位を与えられ、それは現代でも変わることなく第一の聖歌とみなされている。
2)多声音楽(ポリフォニー)の進出(10世紀〜)
たとえば、ギリシャ語の「キリエ」にラテン語の説明の歌詞を追加した「トロープス」、「アレルヤ」のメリスマ部分を別の曲に発展させた「セクエンツィア」などだ。
そして10世紀を過ぎる頃になると作曲家たちは次第に技巧的な曲を書くようになり、教会音楽もパリを中心に多声音楽が作曲されてゆく。
はじめは二声だったが、やがては三声、四声のものも現れる。
ただルネサンス期の調和のとれた和声の響きとは異なり、現代人の耳には仏教の声明のように聴こえるかもしれない。
3)ミサ曲の出現(14世紀)
これまでの聖歌は、典礼のそれぞれの場面に必要な音楽を作曲した単品の楽曲であり、正確には「ミサ曲」とは呼ばれていない。
史上初の「通作ミサ曲」は、ギョーム・ド・マショー(1300頃-1377)の「ノートルダムのミサ曲」だ。
マショーはフランスの作曲家で、作品にはシャンソンなどの世俗曲も多い。
「ノートルダムのミサ曲」を楽譜どおり演奏すると、4度や5度の和声が多く、現代人の耳に心地よい音楽では決してないため、「歴史的意義は高いが、鑑賞には堪えない」とする人もいる。
しかしこれが中世の美意識だったとも考えられる。
4)ルネサンス期のミサ曲(15世紀〜)
システィーナ礼拝堂でもフランドル出身のジョスカン・デ・プレ(1440頃-1521)やスペイン出身のトーマス・ルイス・デ・ヴィクトリア(1548頃-1611)が活躍するなど、国際交流も盛んだった。
マショーの「通作ミサ曲」から一歩進んで「循環ミサ曲」が作られるのもルネサンス期だ。
これはミサ通常文の各曲(「キリエ」「グロリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」)に「定旋律」と呼ばれる共通の主題を用いることで、各曲の統一感を高めるものだ。
ギョーム・デュファイ(1400頃-1474)、ヨハンネス・オケゲム(1410?1425?-1497)が有名だ。
ジョスカン・デ・プレ(1440頃-1521)は「循環ミサ」をさらに発展させ、「通模倣」形式を確立した。
これは定旋律を各声部が次々に模倣してゆくもので、のちにフーガを生み出した。
この時代になると、現代人の耳にも協和音と聴こえる響きであり、またバッハの数学的な曲作りを思わせる緻密さでおもしろい。
ところでミサ曲に使われた定旋律だが、グレゴリオ聖歌を用いるものもあれば、世俗曲を用いるものもある。
流行している世俗曲の旋律を使うことで、教会に来た一般の信徒たちを楽しませることができたが、もとの世俗曲は「恋人よ、さようなら」や「私にキスして」など、頭の固い教会関係者が難色を示すような歌であることもしばしばだった。
ルネサンス最後の名作曲家として外せないのは、ジョヴァンニ・ピエールルイジ・ダ・パレストリーナ(1525頃-1594)だろう。
定旋律を用い、通模倣の様式で書かれた多声音楽だが、聴く者の魂を浄化させるような美しいハーモニーが聴かれる。
カトリック教会はこれ以後数百年経っても、パレストリーナをポリフォニー聖歌の理想としていた。
「カストラートによるカストラートのための」という枕詞で紹介されることもある、システィーナ礼拝堂の門外不出の秘曲「ミゼレーレ」を作曲したグレゴリオ・アレグリ(1582-1652)もルネサンス後期の作曲家として紹介されるが、生きた時代をみればむしろバロック初期である。オペラ《オルフェオ》で有名なモンテヴェルディ(1567-1643)のほうが年上だ。
作曲家たちは「スティレ・アンティコ=古様式」と呼ばれるパレストリーナを手本とした対位法書法と、「スティレ・モデルノ=モダン様式」を書き分けた。
スティレ・アンティコは数百年後も学ばれ続け、モレスキの時代にもパレストリーナを髣髴とさせる教会音楽が書かれている。
5)宗教改革とトレント公会議
時代は遡って1517年、マルティン・ルターは免罪符の発行を批判して「95ヶ条の論題」を発表した。
当初ルターはカトリックの聖職者として、内部から教会の浄化を望んでいたが、教皇から破門されたため「ルター派」と呼ばれるプロテスタントとなった。
一方イギリス国王ヘンリー8世(在位1509-1547)は、離婚問題で教皇庁と対立し破門されたため、1534年首長令を発布し、イギリス国教会を樹立した。
ルターの宗教改革やイギリス国教会の成立に危機感を持ったカトリック側も、イエズス会を中心に改革に乗り出す。
1545年〜1563年、イタリアのトレントで公会議が開かれ、プロテスタント諸派の離脱で揺らいだローマ・カトリックの基盤が再度確認され、固められた。
1570年、ピウス5世は『ローマ・ミサ典礼書』を発布し、世界中のカトリックのミサのルールを定めた。
教会音楽についてもこの公会議で見直しがなされ、技巧を極めた多声音楽では肝心なラテン語の歌詞が聞き取れないと批判された。
グレゴリオ聖歌のような単旋律の聖歌以外は禁止すべきだという意見もあったが、多声音楽は許された。
しかしトロープスは完全に禁止され、無数にあったセクエンツィアも4曲を残して禁止(18世紀に5曲となる)、恋愛を題材にした世俗曲を定旋律に用いることも禁止された。
こうして制約が増えたため、作曲家たちはミサ曲よりも世俗曲に力を傾けるようになり、バロック期(1600年以降)になると宗教音楽よりオペラを中心とした世俗曲がめざましい発展を遂げてゆく。