ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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ドメニコ・ムスタファ(Domenico Mustafa 1829-1912)は優れたソプラノ歌手として知られているが、特にヘンデルの演奏が素晴らしかったという。
力強さと美しさを兼ね備えた声で、完璧なコロラトゥーラやトリルを聴かせたそうだ。
フランツ・ハーベックはその著書の中で、全盛期のムスタファの評判についてふれていて、女性と同じくらい甘く優しい声で、少なくともミドルCからハイCまでの2オクターブの声域があったそうだと述べている。

1) 歌手、作曲家、指揮者として

ムスタファ若い頃

ムスタファは、1829年イタリア中部の街ペルージャに生まれ、1848年、システィーナ礼拝堂聖歌隊に入隊した。
彼は作曲の才能にも恵まれており、1855年、「6声のためのミゼレーレ」を発表し、評判をとった。
また彼は聡明な人物で処世のすべも心得ており、1860年、教皇レオ13世は彼を聖歌隊指揮者に任命した。

 

その業績と名声から、ムスタファはシスティーナ礼拝堂の終身指導者候補に推薦される。
前任の指導者ジュゼッペ・バイーニが他界したあと、彼は聖歌隊の指導的立場を担ってきたのだ。
そして1878年、選任されるに至った。
そしてまた終身名誉聖歌隊員となり、ローマの音楽的組織"Societa Musicale Romana"の委員長を務めた。


2) ムスタファと聖歌隊の様子

ムスタファのレリーフ

聖歌隊は伝統的に、真ん中に置かれた一枚の大きな楽譜を全員で見上げるようにして歌った。この楽譜は我々が見慣れた五線譜ではなく、計量記譜法の楽譜(ネウマ譜など)だ。
モレスキたちにとってもこの種の楽譜は読みやすいものではなかったが、聖歌隊は何年も同じ曲を繰り返し歌ったため、曲を覚えてしまえばさほど不自由はなかった。

 

また指揮者は、会衆側に背を向けて立つのではなく、聖歌隊の真ん中から指揮をした。
よって、ソロパートを受け持ちつつ、指揮をすることも可能だった。
ムスタファは終身指導者の地位にありながら、人手不足のソプラノパートをおぎなうことができた。

 

写真は大きな楽譜を見ながら指揮をするムスタファ――彼の墓石に彫られたレリーフである。
レリーフは聖歌隊の様子を示しており、中央の人物がムスタファだ。
会衆側を向いた彼の前に楽譜があり、ほかの歌手たちもその後ろから楽譜をのぞいて歌っている。
指揮者がほかの歌手たちと共に歌うことができた様子がよく分かる。

 

終身指導者の職は名誉ある地位であったが辛苦も多く、彼は2度までも辞職を願い出ようとした。
1883〜87年までのシスティーナの日誌によれば、ストレスがふくらむと彼は故郷の近くの町モンテフェルコに帰ってしまい、そのあいだ聖歌隊はパスクアーリの手にゆだねられたそうだ。

 

だが利口なムスタファは、ここぞというときには、しっかりと復帰した。
1888年1月1日、サン・ピエトロ大聖堂で行われたレオ13世の聖職受任50年祭を祝う盛大なミサでは、数か月ぶりにローマに戻ってきたムスタファが、自身のモテットの初演を指揮した。
この祝祭の折、聖歌隊メンバーは銀製の記念メダルを下賜された。


3) オペラへの接近

ムスタファ壮年期

リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)はムスタファを自作のオペラのキャストに抜擢しようとしたことがある。
1882年に初演されたワーグナーの最後のオペラである『舞台神聖祝典劇 《パルジファル》』のクリングゾル役である。
だが邪悪な魔術師というこの役柄は、神聖なる美声を持つムスタファにはふさわしくなかったので、やがてアイディア自体が白紙に帰した。

 

(クリングゾルは「聖杯の騎士」に加わりたいがために、己の性欲を絶とうと自ら去勢してしまうという人物なので、ワーグナーは初めカストラートをこの役に当てようとした。だが考えてみれば、事がなされたのは思春期後なので、この役にはソプラノよりバリトンのほうがふさわしかった。

 

クリングゾルは、それでも聖杯の騎士として認められなかったために、魔術を身に付け聖杯の騎士を堕落させようとするというストーリーである)

 

ヴェルディとムスタファ

       

ワーグナーの話をしておきながら・・・ この写真はヴェルディと共に写るマエストロ・ムスタファである。


4) 教師としての名声

ムスタファは教師としても有能で、イタリア随一の声楽教師として名高かった。

 

エマ・カルヴェ

 

1892年にフランスの名ソプラノEmma Calve (1858-1942)にレッスンをおこなったが、彼女の有名な「第四の声」はこのとき教わったそうだ。
この声は3点ニ音まで伸びる高音で、洗練されたファルセットで、この世のものとも思われない響きで、どこからともなく出すことができたと言われている。

 

ムスタファがその声を出すのを聴いた彼女は、「奇妙で無性で超人的で奇怪」と表現している。

5) 晩年とその後

1890年代のムスタファ

「終身」指導者であったものの、1902年、ムスタファは高齢を理由に引退を決意し、ロレンツォ・ペロージを後任に指名した。
引退後はペルージャ近郊のモンテフェルコに豪奢な邸宅を建て、そこで過ごした。時折、友人や親類が訪ねてきたようだ。
1912年3月、彼はそこで亡くなりモンテファルコの墓地に葬られた。

 

ムスタファが晩年を過ごしたモンテフェルコの邸宅は保存され、現代ではホテル「ヴィッラ・ムスタファ」として営業している。
1926年、アルベルト・デ・アンジェリスによって伝記が書かれた。

 

ヴィッラ・ムスタファ

ホテルのサイトから転載)



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