1) ムスタファはペロージに失望
ペロージは絶対的なチェチリアニズムの支持者だった。
彼は1880年代にサルト司教(将来教皇ピウス10世となる人物)に出会い、チェチリアニズムを牽引するドイツ人Haberlのもとで学ぶよう勧められた。
ヴェルディの傑作のひとつである「レクイエム」さえ宗教的観点から否定するテバルディーニのことも良く知っていた(サルト司教、テバルディーニについては「チェチリアニズムのシスティーナ礼拝堂聖歌隊への影響」ページの「2) チェチリアニストが批判する演奏様式」を参照)。
またソレム修道院も訪れ、グレゴリオ聖歌の改訂にも関わっており、両方の陣営に関与していた。
1893年、サルトはヴェネチアの総大司教になり、翌年21歳のペロージをサン・マルコ大聖堂の聖歌隊指導者に任命した。
そして1898年12月15日、ペロージはシスティーナ礼拝堂聖歌隊の終身指導者に任命されたがその翌日、ムスタファに宛てた手紙には、
「あなたの助言のもと、歴史的な聖歌隊の良き伝統を後世に伝えていくことを、私は何にも増して強く願っております」
と書かれていた。
「伝統的な」ではなく「歴史的な」、「システィーナ固有の伝統」ではなく「良き伝統」と、巧妙な言い回しが使われている。
ムスタファは、ペロージの「真の伝統」に対する考え方が自分と大きく異なることに気付き、この若者を指導者につけたことで、ある特定の方法論を増長させてしまったことを悔やんだ。
一方歌手たちも、同じ地位にいる二人の指導者がかけ離れた理想を掲げているので、聖歌隊の先行きに不安が募った。
中でも聖歌隊に残っていたカストラート歌手――モレスキ、サルヴァトーリ、セバスティアネッリにとっては猶更だったろう。清廉を求めるチェチリアニズムの思想は、カストラートの声をシスティーナ堕落の権化とみなしていたのだから。
とはいえ、サン・マルコでは理想を追求し、それまでの音楽を変えたペロージも、システィーナではムスタファを補佐して数年間大きな動きを見せなかった。
彼は1880年代にサルト司教(将来教皇ピウス10世となる人物)に出会い、チェチリアニズムを牽引するドイツ人Haberlのもとで学ぶよう勧められた。
ヴェルディの傑作のひとつである「レクイエム」さえ宗教的観点から否定するテバルディーニのことも良く知っていた(サルト司教、テバルディーニについては「チェチリアニズムのシスティーナ礼拝堂聖歌隊への影響」ページの「2) チェチリアニストが批判する演奏様式」を参照)。
またソレム修道院も訪れ、グレゴリオ聖歌の改訂にも関わっており、両方の陣営に関与していた。
1893年、サルトはヴェネチアの総大司教になり、翌年21歳のペロージをサン・マルコ大聖堂の聖歌隊指導者に任命した。
そして1898年12月15日、ペロージはシスティーナ礼拝堂聖歌隊の終身指導者に任命されたがその翌日、ムスタファに宛てた手紙には、
「あなたの助言のもと、歴史的な聖歌隊の良き伝統を後世に伝えていくことを、私は何にも増して強く願っております」
と書かれていた。
「伝統的な」ではなく「歴史的な」、「システィーナ固有の伝統」ではなく「良き伝統」と、巧妙な言い回しが使われている。
ムスタファは、ペロージの「真の伝統」に対する考え方が自分と大きく異なることに気付き、この若者を指導者につけたことで、ある特定の方法論を増長させてしまったことを悔やんだ。
一方歌手たちも、同じ地位にいる二人の指導者がかけ離れた理想を掲げているので、聖歌隊の先行きに不安が募った。
中でも聖歌隊に残っていたカストラート歌手――モレスキ、サルヴァトーリ、セバスティアネッリにとっては猶更だったろう。清廉を求めるチェチリアニズムの思想は、カストラートの声をシスティーナ堕落の権化とみなしていたのだから。
とはいえ、サン・マルコでは理想を追求し、それまでの音楽を変えたペロージも、システィーナではムスタファを補佐して数年間大きな動きを見せなかった。
2) 指導者間の確執と、モレスキのフランス遠征
翌年1899年、2月7日の前教皇ピウス9世記念ミサと、3月3日のレオ13世戴冠記念ミサの指揮が、ペロージに割り振られていたことで、早速小さな諍(いさか)いが持ち上がった。
これはデッラ・ヴォルペがムスタファを支持することで解決されたが、このときムスタファがヴォルペに宛てた手紙には、ペロージの改革への不満がつづられている。
聖歌隊では、中央に置いたひとつの大きな譜面を全員で見て歌うというスタイルが、数百年続けられてきたが、ペロージはこの習慣を廃止したので、歌手たちの統一感と演奏の柔軟性が損なわれる恐れがあるというのだ。
1900年5月24日、カッシアのリタとジャン=バティスト・ド・ラ・サールの列聖の祝祭においては、ついにムスタファがペロージに対し、「私に任せないのならお前クビにするぞ」と脅す一幕があった。
ムスタファはこの盛大な儀式を、できうる限り伝統的な音楽で祝したいと決めていた。長い伝統を持つファルソボルドーネでグレゴリオ聖歌を歌うシスティーナ聖歌隊を指揮する最後の機会だったのだ。
ファルソボルドーネとは、もともとは単旋律で歌われていたグレゴリオ聖歌に和声付けする方法の1つで、旋律の上に3度や6度の音程を付加して歌うものだ。
この儀式は大規模に執り行われた。
当時まだローマには電気が通っていなかったが、ヴァチカンの技術者が発電機を組み立てて、初めて電球のイルミネーションが灯された。
勿論伝統的な明かりも健在で、サン・ピエトロ大聖堂内の広大で薄暗い空間は、おびただしい数の蝋燭のシャンデリアで照らし出された。
朝5時に始まった儀式は昼まで続き、国内外から多くの巡礼者が訪れた。
カッシアのリタ(1381-1457)はイタリアの修道女だが、ジャン=バティスト・ド・ラ・サール(1651-1719)はフランスの司祭である。
ド・ラ・サールは私財や身分を投げ打って貧しい子供たちの教育に身を捧げた聖職者で、彼が設立したラ・サール修道会は現在も活動している。
フランスのリヨンは、ラ・サール会(正式名称は「キリスト教学校修士会」)の修道士たちの中心的活動地のひとつであった。
1900年にリヨンで行われたベートーベン記念祭にモレスキが招かれて歌いに行ったのは、ド・ラ・サールの列聖ミサに参列した有力な修道士がモレスキの声を聴いて感銘を受けたからかも知れない。
だがこの時期、モレスキの名声はローマのみならずイタリア全土に広まっていたし、若いころの『オリーブ山上のキリスト』(ベートーベン作曲)での活躍も有名だったので、上記の列聖ミサをリヨン遠征の理由とは断定できない。
これはデッラ・ヴォルペがムスタファを支持することで解決されたが、このときムスタファがヴォルペに宛てた手紙には、ペロージの改革への不満がつづられている。
聖歌隊では、中央に置いたひとつの大きな譜面を全員で見て歌うというスタイルが、数百年続けられてきたが、ペロージはこの習慣を廃止したので、歌手たちの統一感と演奏の柔軟性が損なわれる恐れがあるというのだ。
1900年5月24日、カッシアのリタとジャン=バティスト・ド・ラ・サールの列聖の祝祭においては、ついにムスタファがペロージに対し、「私に任せないのならお前クビにするぞ」と脅す一幕があった。
ムスタファはこの盛大な儀式を、できうる限り伝統的な音楽で祝したいと決めていた。長い伝統を持つファルソボルドーネでグレゴリオ聖歌を歌うシスティーナ聖歌隊を指揮する最後の機会だったのだ。
ファルソボルドーネとは、もともとは単旋律で歌われていたグレゴリオ聖歌に和声付けする方法の1つで、旋律の上に3度や6度の音程を付加して歌うものだ。
この儀式は大規模に執り行われた。
当時まだローマには電気が通っていなかったが、ヴァチカンの技術者が発電機を組み立てて、初めて電球のイルミネーションが灯された。
勿論伝統的な明かりも健在で、サン・ピエトロ大聖堂内の広大で薄暗い空間は、おびただしい数の蝋燭のシャンデリアで照らし出された。
写真は現代のサン・マルコ大聖堂内部
朝5時に始まった儀式は昼まで続き、国内外から多くの巡礼者が訪れた。
カッシアのリタ(1381-1457)はイタリアの修道女だが、ジャン=バティスト・ド・ラ・サール(1651-1719)はフランスの司祭である。
ド・ラ・サールは私財や身分を投げ打って貧しい子供たちの教育に身を捧げた聖職者で、彼が設立したラ・サール修道会は現在も活動している。
フランスのリヨンは、ラ・サール会(正式名称は「キリスト教学校修士会」)の修道士たちの中心的活動地のひとつであった。
1900年にリヨンで行われたベートーベン記念祭にモレスキが招かれて歌いに行ったのは、ド・ラ・サールの列聖ミサに参列した有力な修道士がモレスキの声を聴いて感銘を受けたからかも知れない。
だがこの時期、モレスキの名声はローマのみならずイタリア全土に広まっていたし、若いころの『オリーブ山上のキリスト』(ベートーベン作曲)での活躍も有名だったので、上記の列聖ミサをリヨン遠征の理由とは断定できない。
3) イタリア国内では国家行事でも活躍
前途不透明なこの時期に、モレスキは海外遠征を行っただけでなく、国内でもイタリア国王の葬儀という重要なミサで歌っており、彼のキャリアの全盛期は皮肉にも困難な時期に重なっているかのようだ。
前述したように、モレスキは第一代国王の記念ミサでも毎年ソリストを務めていたので、1900年7月に第二代国王が暗殺されると、王家はヴァチカンに対し、葬儀ミサのためにモレスキを貸してほしいと要請し、教皇は特別に許可を出した。
この時期もまだ、イタリア王国と教皇庁の国交は断絶状態で、葬儀のミサを執り行ったのもジェノバの大司教であり、ヴァチカンから正式に派遣された者はいなかった。
このような緊迫した政局の中、教皇の私的な聖歌隊のカストラートという微妙な立場にも関わらず許可が下りたのは、アレッサンドロの世俗での評判が続いていたからだそうだ。平たく言えば、ローマ市民などの一般大衆にも人気があったので歌いに行ったということだろう。
ちなみに報酬は、鎖のついた金の懐中時計で、現金ではなかった。
ウンベルト1世の葬儀のミサは、1900年8月9日にパンテオンで行われた。
指揮は、オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》(1890年初演)で成功を収めていたピエトロ・マスカーニ(1863-1945)である。
聖歌隊は、イタリア全土のコンセルヴァトワール(音楽院)から選ばれた160人により結成された。
曲目は、パレストリーナやヴィクトリアのほかに、ジョバンニ・フランチェスコ・アネリオ(1567-1630) などのルネサンス後期の作曲家から選ばれた。
また当時のローマの新聞記事にはヴェルディやルイジ・ケルビーニのレクイエムも演奏されると予想しているものもある。
モレスキがどの曲でソロを歌ったのか正確な記録は残っていないものの、クラプトン氏はテルツィアーニ(1824-1889)の『リベラ・メ』ではないかと予想している。
この2年後、モレスキがテルツィアーニのレクイエム・ミサから「Hostias et preces」を録音しているからだ。
前述したように、モレスキは第一代国王の記念ミサでも毎年ソリストを務めていたので、1900年7月に第二代国王が暗殺されると、王家はヴァチカンに対し、葬儀ミサのためにモレスキを貸してほしいと要請し、教皇は特別に許可を出した。
この時期もまだ、イタリア王国と教皇庁の国交は断絶状態で、葬儀のミサを執り行ったのもジェノバの大司教であり、ヴァチカンから正式に派遣された者はいなかった。
このような緊迫した政局の中、教皇の私的な聖歌隊のカストラートという微妙な立場にも関わらず許可が下りたのは、アレッサンドロの世俗での評判が続いていたからだそうだ。平たく言えば、ローマ市民などの一般大衆にも人気があったので歌いに行ったということだろう。
ちなみに報酬は、鎖のついた金の懐中時計で、現金ではなかった。
ウンベルト1世の葬儀のミサは、1900年8月9日にパンテオンで行われた。
指揮は、オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》(1890年初演)で成功を収めていたピエトロ・マスカーニ(1863-1945)である。
聖歌隊は、イタリア全土のコンセルヴァトワール(音楽院)から選ばれた160人により結成された。
曲目は、パレストリーナやヴィクトリアのほかに、ジョバンニ・フランチェスコ・アネリオ(1567-1630) などのルネサンス後期の作曲家から選ばれた。
また当時のローマの新聞記事にはヴェルディやルイジ・ケルビーニのレクイエムも演奏されると予想しているものもある。
モレスキがどの曲でソロを歌ったのか正確な記録は残っていないものの、クラプトン氏はテルツィアーニ(1824-1889)の『リベラ・メ』ではないかと予想している。
この2年後、モレスキがテルツィアーニのレクイエム・ミサから「Hostias et preces」を録音しているからだ。
パンテオン神殿内部