ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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(3) チェチリアニズムのシスティーナ礼拝堂聖歌隊への影響
  1)イタリアへ波及するチェチリアニズム
  2)チェチリアニストが批判する演奏様式
  3)システィーナ聖歌隊への称賛と批判
  4)システィーナ聖歌隊の反撃
 

1)イタリアへ波及するチェチリアニズム

ドイツで興ったチェチリアニズム運動の主要人物で、システィーナ礼拝堂の演奏に関わりがある人物を二人挙げておく。

Karl Proske(1794-1861)
若いころは医学を志していたが、1826年に聖職者となり、1830年にレーゲンスブルク大聖堂の聖歌隊指導者となる。
個人的な収入を得る手段があったらしく、その私財をそそいでパレストリーナ様式の「礼拝にふさわしい」音楽だけを集めた曲集の編集に生涯を捧げた。

1834年から1838年にかけて、イタリア――特にローマを訪れ、システィーナ礼拝堂で聴いた音楽について記したが、その文章がのちにチェチリアニストたちが教皇聖歌隊の演奏を批判する際に引用されるようになった。

Franz Xaver Witt(1834-1888)
神父で教会音楽の作曲家。Proskeがローマで聴いた演奏の報告を読み、システィーナ聖歌隊の演奏を批判している。
彼の設立した団体「全ドイツ・チェチリアン同盟」は1870年、教皇から祝福を与えられた。

19世紀後半には、チェチリアニズムはカトリックの中枢からも、正式に認められるようになっていったのだ。

1880年代からイタリア国内でも、北イタリアからチェチリアニズムが盛んになってくる。
ドイツでは聖職者と教会音楽家が中心となっていたが、イタリアでは、政府が教会をないがしろにする政策を行っていると考える世俗の人々が、王国に反対を表明するために集まった組織が中心となって広まっていった。

2)チェチリアニストが批判する演奏様式

チェチリアニストたちに批判されたのは主に多声音楽を歌うときに用いられる、システィーナ礼拝堂の伝統となっていた装飾的な歌唱法と、原典研究より伝統にもとづいたグレゴリオ聖歌の演奏様式などだった。

グレゴリオ聖歌は教会の中で大切に守られ、世代をこえて連綿と歌い継がれてきたが、人から人へと伝えられるうちに少しずつ変化していった。
システィーナ礼拝堂ではそうした伝統的な歌い方が続いていたが、チェチリアニストたちは古い写本の研究にもとづくピリオド演奏こそ正統だと主張したのだ。

現在もグレゴリオ聖歌に関する研究は続いているが、現代では、グレゴリオ聖歌の成立当時にどう演奏されたのかを研究し、その旋律をできる限り復元しようという試みがなされている。
チェチリアニズムの方法論が主流として残ったと言えるかも知れない。

システィーナでは伝統的にメディチ家版が公式のものとして採用されていたが、1868年、ドイツ、レーゲンスブルクで出版された新版のグレゴリオ聖歌にも認可が与えられた。

だが聖歌隊終身指導者であるムスタファは、自身の演奏解釈が正統だと自信を持っていた。
1892年12月2日付のシスティーナ礼拝堂日誌に、パレストリーナの「エレミヤの哀歌集」のリハーサルについて、

彼(ムスタファ)は伝統的な様式に立ち返ったので、その指揮は皆から賞賛された。昔の歌い方を覚えている年配のメンバーからは特に感心された。

と、書かれている。
だがムスタファにとって不運なことに、将来教皇となるジュゼッペ・サルトは同じころ熱心なチェチリアニズムに身を投じていた。

この年の10月12日付でサルトから、チェチリアニズムを支持する若い音楽学者ジョヴァンニ・テバルディーニ(1864-1952)宛に送られた手紙には、「礼拝の重要な要素の1つである教会音楽の研究」とか「そうした音楽が信者たちの真の信仰心を高め保つことができる」などの言葉が躍っている。
テバルディーニはブレシア(イタリア北部ロンバルディア州の都市)の音楽家兼学者だったが1890年代にはイタリア各地で教会音楽に関する講演を行っている。
この年の9月にも「教会音楽に関する実践的理論的研究」と題した講演を行ったばかりだった。

3)システィーナ聖歌隊への称賛と批判

1894年4月26日、教皇宮殿のクレメンティーナ・ホールでパレストリーナ没後300周年記念ミサが行われた。このときの演奏は広く一般に公開されたので、教皇聖歌隊の演奏に賛否両論が巻き起こった。

まずは彼らを讃える、トリノの記者の文章から。

ムスタファはパレストリーナの才能に挑むかの如く「第二の創造」と呼ぶべき新たな解釈を披露した。
このローマに「Peccavimus」を聴いたことのない者などいるだろうか。
だが昨日のムスタファの指揮は、この耳慣れた楽曲から新たな趣向を引き出したのだ。
それは初めて耳にする貴重な美しさだった。
終演後、豪華なホールから出ていく観客たちは誰もが、神と聖人たちを讃美するにふさわしい真の教会音楽を聴いた感動に満たされていた。


一方ミラノの「ムジカ・サクラ」誌は、モンシニョール・グラッシ・ランディの批判を載せた。

「Incarnatus」以外の曲はすべて、仰天するほどの大声で歌われていた。なぜこうした傑作から色調を奪い去ってしまうのか。
あの誇大な大音量を抑えれば、それぞれのパートをより高めることができるだろうに。


ところで教皇自身の反応は、讃辞を述べつつも、どことなく不満があるようだ。
というのも教皇はあまり新しい解釈を求めてはいなかった。急激な断絶を好まず、伝統を重んじる連続性を大切にしていたのだ。

4)システィーナ聖歌隊の反撃

1895年、ムスタファが聖歌隊のレパートリーに「Hodie Chritus Natus」(パレストリーナのミサ曲)を新たに加えたことを、ローマの新聞記事は、

すでに述べたことの繰り返しになるが、教皇聖歌隊はまったく非難の余地すらない古典的教会音楽を演奏し、伝統をしっかりと固守しており、我々をまた喜ばしてくれる。

と報じたが、この「伝統」こそチェチリアニズムにとっては「問題」だった。

1896年2月7日のピウス9世の没後記念ミサについて、「ムジカ・サクラ」誌はまたもグラッシ・ランディが寄稿した批判を載せた。

このミサはほかの儀式と比べると演奏の正確さを欠いていた。信者席の人々さえ暗記しているだろうに。

こうした中傷に、聖歌隊側も沈黙していたわけではなかった。
この時期マエストロ・プロ・テンポレの職にあったチェザーレ・ボエツィ(*1)は、儀礼聖省(*2)の長官アンドレア・フェッラーリ枢機卿に抗議の手紙を送った。枢機卿はミラノの大司教も務めており、「ムジカ・サクラ」誌はその管区で発行されていたのだ。

ボエツィは、パレストリーナ没後300周年ミサに触れ、

このとき、この分野に卓越しているローマにはたくさんの贈り物がもたらされた――持たざる人は誠実な言葉を尽くして、私たちの敬愛する終身指揮者を褒め称えたのだが、この雑誌だけが悪意ある投書を載せたのだ。
この雑誌社は、人々を満足させた様々な新聞の正確な記事を、まったく無視しているのだろうか。


と書き、パレストリーナ記念ミサにおける教皇の歌手たちの演奏について、ローマを訪れた「アマチュアの自称評論家たち」がこの雑誌社に送った評論について、調査を依頼している。
また、モンシニョールが演奏について十分に理解していない点を挙げ、単なる素人批評だと口角泡を飛ばして主張している。
しかもグラッシ・ランディは教皇庁から給料をもらっている身なのだ。
教皇庁は財政の危機に瀕しており、システィーナ聖歌隊員たちも含め、教皇庁に仕える者はヴァチカンから支払われる給料を分け合って慎ましい暮らしをしているのに、そのうちの一人が教皇聖歌隊を滅ぼそうとするとは何事かと指摘した。

*1 チェザーレ・ボエツィ
テノール歌手ボエツィの歌声は1904年のヴァチカン・レコーディングに残されている。
カポッチ作曲「Messa di San Bonaventura」の中の「グロリア」でソロを歌っているが、OPAL盤では曲中のソプラノ、テノール、バスによる三重唱の部分のみが収録されている。

*2 儀礼聖省(Sacred Congregation of Rites)
礼拝等の宗教儀式と列聖を管理する教皇庁の聖省。
詳しくは「聖歌隊に忍び寄る暗雲」の「2) 正統な宗教音楽とは? オーセンティックな演奏とは?」参照

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