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ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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リソルジメントは、ローマ併合によって成し遂げられる。
しかしローマ問題とは、イタリア王国のローマ併合や、ローマ遷都というだけでなく、ローマ教会とイタリア王国の問題、つまりは教皇と政府の関係に関する問題でもあった。
教皇領の支配権を獲得するという意味では、ローマ問題は1870年に解決するが、教皇庁とイタリア国家の諸関係は1929年のラテラーノ条約でようやく調整された。

1) ローマ問題に対するフランスの動き

ナポレオン3世

オーストリア帝国からイタリアを開放する際には友好国であったフランスだが、ローマ問題においては障壁となっていた。
フランスのカトリック教徒の世論は、ナポレオン3世に教皇の世俗権を守るよう仕向けたので、ローマにはフランス軍が駐屯していた。
1862年と67年にガリバルディはローマ進軍を試みたが、フランスの介入により二度とも失敗に終わった。
1864年、イタリア王国首相ミンゲッティは、ナポレオン3世と「9月協定」を結んだ。
この内容は、2年以内にフランス軍がローマから撤退することと、イタリア政府が教皇領を保護することを約束したものだ。

2) 教皇ピウス9世の立場

ピウス9世

教皇ピウス9世は、イタリア政府の「9月協定」というフランスとの政治的駆け引きにいきどおり、回章をもって反発した。
回章につけられたシッラボ(要旨)は、近代社会の基礎的理論に対する80の非難命題から構成されており、「誤謬表」と呼ばれる。
自由主義、社会主義、共産主義、人民主義、「教会と国家の分離」などを、教皇が現代社会の誤謬と判断していると発表したのだ。
これは、教会の立場と当時の社会の深刻な亀裂を明確にした。
自由主義的なカトリック教徒は失望し、世論は教会に反発した。

また1869〜70年の第一ヴァチカン公会議での議論を経て、1870年に「教皇の不可謬性」が宣言された。
教皇による決定は聖霊の導きによるものなので、決して誤ることはないというものだ。
「教皇の不可謬性」についての考え方は古くからあったものの、教義として決定的な形に整えられてはいなかった。
それを自由主義が台頭する19世紀半ばに宣言したことに対して、教会関係者の中にさえ、時代の流れに逆行していると感じる人々がいた。

3) イタリア王国、教皇領を併合

1870年普仏戦争が起こった。
この戦争で敗北したフランスはアルザスとロレーヌをドイツに割譲したばかりでなく、ナポレオン3世の支配に終わりをもたらした。
この機会にイタリア軍はローマに入城し、国民投票によりローマはイタリア王国に併合された。
この国民投票で、イタリア王国の統治より教皇の支配を望んだのは、投票者の1パーセントをわずかにこえる程度だった。
ローマ内では更に状況は厳しく、約25万人のうち数百人しか教皇権を支持しなかった。
イタリアのリソルジメント(統一運動)」の章にも書いたように、教皇の支配は独裁的であったため、モンテ・コンパトリのように長く教皇の直接支配が続いた土地でさえ、人々はほとんど帰属意識を持っていなかったのだ。
教皇は世俗権を失った。千年以上続いた教皇領の歴史は幕を下ろしたのだ。

ピウス9世は現状に激怒していた。
「イタリア軍が教皇庁の土地を占領したこと」は「不当、暴力、無益、無価値」であるとし、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世から一般の兵士にいたるまで、すべての関係者を破門した。

イタリア国家はローマ教会との関係を調整するため、「教会保障法」を制定した。
この法律は、今は亡きカヴールの「教会と国家の分離」が原則となっており、以下の事柄を定めていた。

イタリア国家は教皇の自由と不可侵を保障

 

カステル=ガンドオルフォの別荘、ヴァチカンとラテラーノの教皇庁の宮殿、庭園、付属の土地を教皇が所有することを認める

 

教皇庁への年間300万リラの支払い


ピウス9世はローマ併合を認めていなかったので、この法律を受け入れず、自らを「ヴァチカンの囚人」と呼んだ。
だが「教会保障法」は、1929年のラテラーノ条約でイタリア国家と教皇庁が和解するまで、双方の関係を調整する役目を果たしていた。

ピウス9世は1878年まで教皇の座に就いていた、歴史上もっとも長い期間を務めた教皇である。

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