ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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1) 生い立ち

アレッサンドロ・ニーロ・アンジェロ・モレスキは、1858年11月11日、モンテ・コンパトリに生まれた。

 

モンテ・コンパトリは、ローマから20マイル(約32キロメートル)ほど離れた丘の上にある町だ。
現在は1万人近い人々が住んでいるが、1863年当時は人口2,259人の小さな町だった。
現在のモンテ・コンパトリはラツィオ州ローマ県である。アレッサンドロが生まれた時期はまだ教皇領(*1)に属していた。

 

モンテ・コンパトリのサンタ・マリア・アッスンタ教会に保存されている教区簿冊(*2)に、彼の誕生に関する記録が残っている。

 

それによると、アレッサンドロは生まれた日に洗礼を受けており、生まれたのは11月11日の11時だったと言われていると記されている。

 

彼の両親は9人の子を授かったが、そのうち3人は幼少のうちに命を落としている。アレッサンドロは7番目の子供で三男である。彼には妹が二人いたが、いずれも1歳と3歳で亡くなった。

 

アレッサンドロが子供時代を過ごした当時の教皇領は、都市部を除いては、決して豊かとは言えなかった。
庶民の日常食は、パン、豆、玉ねぎ、塩、ラード、オリーブ油からなり、質素な服を着、つつましい暮らしをしていた。
また、1871年の統計によればラツィオ州の人口の67.7%が、読み書きできなかった。
初等教育が義務化されるのは1877年まで待たなければならなかったが、アレッサンドロは幸運にも小学校に通うことができたようだ。

 

*1 教皇領

教皇領とはローマ教皇と教皇庁が支配権を持っていた領土で、現在のローマを含むイタリア半島中部の広大な土地を有していた。1870年、軍事的な後ろ盾となっていたフランスが撤退すると、イタリア王国に占領され、教皇の世俗権は失われた。

 

*2 教区簿冊
;教区簿冊とは、教会に保管されている記録簿で、教区民の洗礼、婚姻、埋葬を行った際に、各個人ごとに、日付、当人の名前、両親や配偶者の名などが記載されているもの。

イタリア地図に見るモンテ・コンパトリの位置

(ローマの東、「A」の吹き出しで示されている場所がモンテ・コンパトリ)

Copyright:2012 Google  

2) 最初の先生

ナザレノ・ロザーティ(1817-1877)はフランシスコ会の修道士であり、24歳から25年間、システィーナ礼拝堂聖歌隊に所属し、テノールとコントラルトの両方で歌っていた。聖歌隊引退後は、才能ある少年をスカウトする役目を担っていた。

 

後年モレスキは、ロザーティと出会い音楽の勉強のために故郷を離れたと、フランツ・ハーベック(*3)に、語っている。

 

モレスキはロザーティを「私の最初の先生」と呼んでいる。このことから、若いアレッサンドロの才能に「お墨付き」を与え、両親に手術を勧めた人物こそがロザーティだと考えられるが、ハーベックの残した文章からは、モレスキがロザーティを恨んでいた様子はまったくない。

 

1687年夏、コッリ・ロマーニ全域でコレラが流行した。
モンテ・コンパトリはトゥフェッロの泉から清潔な水を得られたので、奇跡的に感染拡大を防ぐことが出来た。
当時の人々は列をなして「マドンナ・デル・カスターニョ」に祈ったので、聖母に守られたのだと考えていた。

 

「マドンナ・デル・カスターニョ」は街から1マイルほど離れた、20〜30人しか座れない小さな礼拝堂に納められた母子像だ(オリジナルの絵画は1919年に盗難に遭い、現在は翌年製作された複製が安置されている)。

 

後年、モレスキ自身がフランツ・ハーベックに語ったところによると、ふだんはサンタ・マリア・アッスンタでボーイ・ソプラノとして歌っていたそうだ。
だが特別の祝祭の折には、教区の教会以外で歌うこともあったのだろう。
カスターニョの礼拝堂でソロを歌っていたことを、モレスキは誇らしげに話したという。

 

「マドンナ・デル・カスターニョ」は地元住民の信仰を集めていただけでなく、聖職者たちにとっても礼拝の対象だったので、ローマから枢機卿や司祭が訪れることも多かった。
1865年8月には、教皇もモンテ・コンパトリを訪問している。

 

アレッサンドロの才能は、こうした機会に見出されたとも考えられるし、コレラ感染拡大を防いだ母子像の奇跡と共にローマに噂が伝わったとも考えられる。

 

*3 フランツ・ハーベック

ハーベックは医師であり、ウィーンで声楽教師も務めていた。ローマで引退後のモレスキに会って話を聞いている。

3) 手術に関する推察

多くのカストラートたちと同様に、モレスキがいつ、どんな理由で去勢手術を受けたのかについては記録が残っていないし、当人も何も語っていない。

 

イタリアでは19世紀になっても、去勢することで幼児の命を救うことができると信じられていたし、子供でも大人でも、痛風やヘルニアなど様々な病気の治療法になるとの迷信が残っていた。

 

アレッサンドロはほかの兄弟と異なり、生まれたその日に洗礼を受けている。これは生後すぐに命が危険にさらされたからかも知れない。
少年時代のアレッサンドロは体が弱く、コレラの流行が去勢手術の口実を与えたとも考えられる。
コレラ流行の時期、少年はもうすぐ9歳になろうとする頃で、思春期前のちょうど良いタイミングだった。

 

アレッサンドロの誕生から数年のうちに、教皇領はその領土の多くを失ったが、モンテ・コンパトリには教皇の世俗権が残されていた。
教皇が完全に世俗権を失い、イタリアのどの地域であっても、少年歌手に対する去勢手術が法的に禁止されるのは、1870年にフランス式の刑法が導入されるまで待たなければならなかった。


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