ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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1)「マエストロ・プロ・テンポレ」となる

1892年になるとモレスキは、慣例通り「マエストロ・プロ・テンポレ(maestro pro tempore)」に選出された。
システィーナ礼拝堂聖歌隊は上下関係の厳格な組織だったが、マエストロ・プロ・テンポレとセグレターリオ・ポンタトーレは、無記名投票によって選ばれることになっていた。
マエストロ・プロ・テンポレは聖歌隊の中で重要なポストとされていたが、その職務は音楽面より運営面における管理が主であった。

具体的には、
聖歌隊のミーティングを招集する
リハーサルの日時を決める
欠席の承認を与える
などがある。

音楽面においては、終身指導者ムスタファを補佐する役目だった。
具体的には、
聖歌隊の新たなレパートリーを提案する
レパートリーのスコアの写しを管理する
独唱者の選出にたずさわる
などである。
もちろんモレスキ自身が常に、ソプラノパートのもっとも有力なソリスト候補であった。

この時期彼は歌手として、作曲家兼指揮者ムスタファの重要なパートナーとなっていた。

2)『ミゼレーレ』では責任重大

1892年3月8日付のシスティーナ聖歌隊日誌によると、この日ムスタファは長年取り組んできた『ミゼレーレ』のスコアを聖歌隊に披露し、リハーサルを行った。

「終身指導者は、過去の演奏様式を次の世代に伝えるために、長い歳月をかけて取り組んできた大仕事である、彼の『ミゼレーレ』を上演する。
彼は聖歌隊員に、特に昔の演奏を覚えている年長のメンバーに向かって、このスコアに対して自由に意見を言ってほしいと、控えめに要求した。欠点は取り除き、足りないものは補うつもりだからと。
すると年長の隊員だけでなく全員が、マエストロの素晴らしい価値ある仕事に賛同した。
そしてマエストロ・プロ・テンポレが、このもっとも尊敬されるべき団体を代表して、終身指導者が礼拝堂にもたらしたこの業績に、皆とても感謝していると話した」


終身指導者とはムスタファを、マエストロ・プロ・テンポレはモレスキを指している。
この『ミゼレーレ』は、グレゴリオ・アレグリ(1582 -1652)と、トマソ・バイ(1650-1718)の合成による版に、ムスタファ自身が、伝統的に歌い継がれてきた装飾を書き込んだものだ。

『ミゼレーレ』は門外不出の秘曲とされ、ルネサンス時代には写譜が禁じられていただけではなく、システィーナ礼拝堂以外の場所で演奏すると破門という重い罰が待っていた。
この曲の神秘性を増していたのは輝かしいばかりの装飾で、聖歌隊の中で数百年間、前の世代の歌手から次の世代の歌手へと伝承されてきたのだ。
この装飾こそがシスティーナ礼拝堂聖歌隊の「名物」となっていた(ただし19世紀の聴衆には、「モレスキの歌唱様式について」の章に書いたように、装飾歌唱はあまり好まれなくなっていた)。

もちろんムスタファ自身も年長の歌手から装飾技法を教わり、またそれをモレスキに引き継いでいた。
だが前章までに書いてきたように、時代の変化という要請により、システィーナ礼拝堂聖歌隊はその独自性を失いつつあった。聖歌隊院養成学校の子供たちや、ほかの大聖堂の聖歌隊員を受け入れ、その閉鎖性は薄まってきたのだ。

1892年1月23日付の自筆譜の序文は、教皇レオ13世に向けて書かれている。

「バイとアレグリによるミゼレーレ。
ここに記したのは、システィーナ礼拝堂で受け継がれてきた伝統的な歌唱法である。

  (中略)
システィーナの演奏に名声をもたらしてきた歌唱様式は、独唱者だけでなく指揮者にとっても失うべきではないとの考えから、45年間信愛なる同僚たちと共に主と聖下と礼拝堂に仕えてきた私は、力の及ぶ限りその伝統様式を書き残そうと思った。」

締めくくりに記されている言葉は、システィーナの秘密主義を反映していて興味深い。
「私は教皇聖歌隊を代表して聖下に写しをつくることを許可されないようにお願い申し上げる」


この自筆譜は現在、研究者が許可を得て閲覧できるヴァチカン図書館に保管されている。
ヴァチカン図書館には「システィーナ礼拝堂文庫」なるカテゴリーがあって、そこにシスティーナ関連の資料が整理されているそうだ。
管理人はもちろん現物を見たことがないのだが、クラプトン氏の本にその演奏指示が引用されていた。
このスコアにはたくさんの演奏指示が書き込まれているが、第一ソプラノであるモレスキに直接関係するものがたくさんある。
例えば、
第一ソプラノが望むように
第一ソプラノが(和声を)解決するまで音を保持して
ハイGを支えるほうが、より第一ソプラノにあっているのなら
などである。

ただ、演奏指示部分だけ読んでもいまいち分かりにくく、余計に現物のスコアを見たくなる。

余談だが、聖歌隊日誌の記事の中にはモレスキが書いたものもある。
例えば1891年8月15日に聖母被昇天祭を祝うために、聖歌隊がオルヴィエート(ウンブリア州の都市)に派遣された記事などである。
これこそ現物を拝みたいものである。

3)故郷に錦を飾る

1892年8月21日、モレスキの故郷モンテ・コンパトリでは、コレラ流行から町を救った聖母子像「マドンナ・デル・カスターニョ」への25年目の感謝祭が行われた。
幼少期」のページに書いたように、1867年にコッリ・ロマーニ全域でコレラが大流行したとき、モンテ・コンパトリの人々はマドンナ・デル・カスターニョへ救いを求めることで、コレラ流行を防ぐことができたのだと信じていた。
当時ボーイソプラノとして頭角を現していたアレッサンドロは、この聖母子像が安置されているカスターニョの礼拝堂で、誇りある独唱を任される機会を得ていた。
そして今や、ローマで教会歌手のトップにまでのぼりつめた彼が戻ってくるのを、町当局は熱望していた。

P.F.サヴェリオ(1892、ローマ)『奇跡を起こす神聖なカスターニョのマリア像の歴史に関する要約』には、下記のような記述がある。

「この町出身のプロフェッサー・アレッサンドロ・モレスキの指揮下に、この上なく荘厳なミサが執り行われた。音楽はモレスキ氏に導かれ、ローマから派遣された12人の著名な先生方と、サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ音楽学校の子供たちによって演奏された。
夕方には挽課があり、マエストロ・カポッチと少年合唱による有名な『ラウダーテ・プエリ』を聴くことができた」


サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ音楽学校時代にアレッサンドロの教師だったカポッチ作曲の『ラウダーテ・プエリ』は、Truesound Transfers盤 (TT-3040『Alessandro Moreschi』)の18曲目に収められており、ここではアントニオ・コマンディーニ(T)のソロと少年たちの合唱で聴くことができる。

ちなみにモンテ・コンパトリでは現在も、毎年9月第一週にカスターニョの礼拝堂で感謝祭を行っている。

4) 聖歌隊と教皇

レオ13世

システィーナ聖歌隊は特別な地位にあったと言える。また聖歌隊指導者ムスタファは作曲家として、指揮者として、教皇レオ13世の寵愛を得ることができた。
1892年1月13日付のシスティーナ日誌では、モテット「Sancte michael」と「Oremus pro pontefice」を教皇にお聞かせした様子が記され、聖歌隊が確固たる地位を築いていたことがうかがえる。
「Sancte michael」は教皇自身が書いた詩に、ムスタファが曲をつけたもので、1892年3月3日、教皇の戴冠(*1)24周年の式典で初めて披露され、その後数年に渡って聖歌隊がたびたび演奏するレパートリーに加わった。


マエストロ・ムスタファは、システィーナ礼拝堂聖歌隊のリハーサルをおこなった。
聖歌隊員とソリストたち、それからリハーサルに加わっていたサン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会の少年たちは教皇聖下を訪問し、新しいレパートリーの演奏をお聞かせした。
歌手たちが待っていると、輿に乗って従者たちに付き添われた聖下があらわれ、入口からもっとも遠い広間の一番奥の玉座に座られた。


(教皇は、みこしのような土台に玉座が備え付けられ12人の従者によって運ばれる教皇用輿に乗って移動するのが慣例であった)

聖下のご指示でOremusとSancte michaelが披露された。
曲が終わると従者の一人が楽長(ムスタファ)に近付き、聖下の座す玉座の足元へうかがうよう促した。
だが同時に聖下ご自身が立ち上がり、まだ歌手たちの近くにいる楽長のところまでいらっしゃった。
楽長が深々と頭を下げ、「
漁師の指輪(*2)」に口づけしている間、聖下は何度も彼の手を力強く握り、素晴らしい演奏と、そして何より彼の新曲についてあたたかい祝福の言葉をかけた。「私はマエストロ・ムスタファに、今までにないほど美しい彼の曲を聴けた喜びを伝えられて、大変嬉しく思っている」

聖下はほかにも大変慈悲深い言葉を尽くして話され、歌手たちが次々にひざまずいて聖なる指輪に口づけしている間も、彼らの演奏を激励した。
「我が十二使徒の祝福を皆に伝えたい」と聖下はおっしゃった。「特にマエストロ・ムスタファに」
「ああ聖下、このような年寄りに――」とマエストロは声を震わせた。
そのおもてには深い感動が滲み出ていた。


日誌のこの記録から、レオ13世はムスタファの書く音楽も、その指揮から生まれる聖歌隊の演奏も高く評価していたことが分かる。
ムスタファは、バイーニ、カポッチなどと同じく、ロマン派らしい旋律の聖歌を書く作曲家で、パレストリーナの下手な模倣を行う様式ではなかった。

*1 戴冠
クレメンス5世(在位1305−1314)からパウロ6世(在位1963−1978)までの代々の教皇は教皇冠を戴冠した。現在この習慣は遠ざけられている。


*2 漁師の指輪
教皇がはめる金の指輪で漁師だったペトロにちなんでいる。


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