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ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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『オリーヴ山上のキリスト』のセラフィムのアリアで、高音域を自在に歌い、すぐれたコロラトゥーラのテクニックを示したモレスキは、システィーナ礼拝堂の聖歌隊指揮者ムスタファから誘いを受け、ほかの聖歌隊員たちの前で演奏を披露した。

1) スター歌手に足りない唯一の条件

システィーナ礼拝堂内部

1883年3月、モレスキは正式にCappella dei Cantori Pontificiに採用された。
Cappella dei Cantori Pontifici(カッペッラ・デイ・カントーリ・ポンティフィチ)は、システィーナ礼拝堂の聖歌隊の正式名称だ。
システィーナ礼拝堂は教皇の私的な礼拝堂であり、Cappella dei Cantori Pontificiは「教皇の聖歌隊」という名称が示すように、教皇の個人的な聖歌隊である。
システィーナ礼拝堂聖は奥行き40.23メートル、幅13.41メートルで、今まで彼が主たる活動場所としてきた、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の広々とした空間とは随分違う。

1883年3月22日付けの教皇答書で、モレスキは教皇の聖歌隊に加わることを許可された。
教皇答書とは、教皇が一つ一つの嘆願書に正式に回答する文書のことだ。
モレスキが書いた聖歌隊加入の志願書は、礼儀を重んじ、難解で古めかしい文体で書かれているそうだ。
原文はイタリア語だが、管理人が読んだのはその英訳。以下に大意を和訳してみた。

  偉大なるレオ13世教皇聖下

わたくしはモンテ・コンパトリから参りましたアレッサンドロ・モレスキと申します。歳は25になります。
聖下のお足元に平伏しそのおみ足に口づけし、恐れながらに申し上げます。
わたくしはこれまで、ラテラーノ大聖堂で第一ソプラノとして年数を重ねて参りましたが、今ここにシスティーナ礼拝堂にて同様の勤めを果たしたく、願い出る所存にございます。
聖歌隊規定により、上記礼拝堂のソプラノパート志願者に課せられる用件のうち、わたくしが有しておりませぬものは、ただひとつにございます。
どうかこの不足を満たしていただきますよう、聖下に心よりお願い申し上げます。
                  アレッサンドロ・モレスキ


ここで述べられている彼が満たしていないただひとつの要件とは、教皇の認可である。

2) マエストロ待望の若手

こうしてモレスキは、エヴァンジェリースタ・ボッキーニ(1827-1888)の引退によって、1882年の降臨節の間不足が生じていたソプラノのポストを手に入れた。

通常は「partecipante」と呼ばれる正規メンバーとして採用される前に、「soprannumerario」という見習い期間があった。
同時に採用されたほかの4人の新人には見習い期間が課されていたが、モレスキは正規メンバーとしての水準に達していると判断されたため、試用期間を経ずに、第一ソプラノとして採用された。
形式上こそ加入を許可されたことになっていたが、ほとんどスカウトされたも同然だった。

当時聖歌隊で終身指揮者を務めていたドメニコ・ムスタファは、翌年の1884年、早くもモレスキにソロを任せ、バイとアレグリの混合バージョンの「ミゼレーレ」のリハーサルを行っている。
このスコアは、インノチェンツォ・パスクアーリが「真の伝統を保証する装飾音を書く」ことの必要性を説いていたものだ。パスクアーリはムスタファより年配のコントラルトで作曲家だったが、パレストリーナに代表される多声音楽推進派で、ロマン派の音楽様式を取り入れるムスタファとは対立していた。

ムスタファは、彼自身素晴らしいソプラノ歌手だったが、すでに50歳を過ぎ、自分の役割を継ぐ有能な若者を求めていた。
モレスキが加入する前、聖歌隊には6人のカストラートが在籍していたが、彼らはムスタファから見て役不足だったのだ。
システィーナ礼拝堂のソプラノ歌手にとって、聖週間に歌われるアレグリの『ミゼレーレ』(*1)のソロパートを務めることは、数百年続く伝統を担う重要な任務だったが、彼らにはやや荷が重かった。

ちなみに当時システィーナ礼拝堂聖歌隊に在籍していたカストラートは以下の通り(アルトも含む)。

○グスターヴォ・ペッシ(1833-1913、1864年入隊)
○ジュゼッペ・リタロッシ(1841-1902、1864年入隊)
○ヨザファト・ヴィッサーニ(1841?-1904/16、1866年入隊)
○ジョヴァンニ・チェザーリ(1843-1904、1866年入隊)
○ドメニコ・サルヴァトーリ(1855-1909、1878年入隊)
○ヴィンチェンツォ・セバスティアネッリ(1851-1919、1880年入隊)

サルヴァトーリとは3歳差とはいえ、一番若い者が異例のスピードで出世していくのだから、ほかの歌手たちの心境は複雑だったかもしれない。

*1 アレグリの『ミゼレーレ』
少年時代のモーツァルトが2度聴いただけで楽譜におこした逸話で有名な曲。教皇庁はこの曲の神秘性を保つため、楽譜を外部に持ち出すことを禁じていたし、聖週間でしか聴くことのできなかったため「秘曲」であった。
繰り返しが多く、モーツァルトが聴き取ったことも納得だが、華やかな装飾を加えて歌うことが伝統となっていった。

グレゴリオ・アレグリは1582年生まれ、ルネサンス末期の作曲家でカストラートだと伝えられている。

3) 給料は? 定年はある? 服装は?

システィーナ礼拝堂の規定に定められた奉仕の誓いを終えると、モレスキは30年間の任用と、退職後の恩給受給資格を得た。

またこの儀式で、聖歌隊員の正式な衣服も受け取った。

深紅のボタンがついたすみれ色のカソックとサッシュ(飾り帯)の上に、コッタと呼ばれる袖の広い短白衣を重ねて着る。

以前はこれらに加え、儀式以外のときに着用する黒い絹のマントがあったが、1871年以降、モレスキのように聖職者ではないメンバーを考慮して服装規定は緩和され、職務中以外は普通の服装でいてよいことになっていた。


給与は月給制で、葬儀のミサなど特別な儀式の際は、追加手当が支給された。

またクリスマスやイースターなどの祭日には祝儀が出た。

正規メンバー「partecipante」と見習いメンバー「soprannumerario」の給与には、2倍以上の格差があった。


1871年の記録によると、partecipante:118.25リラ、soprannumerario:53.75リラだという。

約30年後の1900年の物価だと、新聞が5チェンテージモ(リラの100分の1)、スカラ座のチケットが15リラだという。

(新聞を一部100円、スカラ座チケット1枚3万円として算出すると、118.25リラ=236,500円)


とはいえモレスキは、システィーナ礼拝堂聖歌隊の給料だけで生活していたわけではない。

隣のサン・ピエトロ大聖堂のジュリア聖歌隊に頻繁にゲスト出演していたし、ラテラーノ大聖堂のピア聖歌隊員を続けてよいという、教皇の正式な許可も得ていた。

これは、有能なソプラノ歌手を失いたくない、ラテラーノの音楽監督カポッチの意向が反映されたものだろうが、教皇領がイタリア王国から攻撃を受けた非常事態ゆえの暫定措置だという理由になっていた。


各聖歌隊の間の境界線は、かつては固く守られていたが、19世紀の間にその垣根は次第に低くなっていたのだ。

4)19世紀後半のシスティーナ礼拝堂

システィーナ礼拝堂のミサの雰囲気は、礼拝堂が建てられた15世紀から注意深く守られてきた。門外不出の秘曲アレグリの「ミゼレーレ」の逸話が示すように、秘密と伝説に隠されてきたのだ。
もちろん400年の間に、人々の嗜好や音楽様式の変化に応じて、聖歌隊の演奏も自然に影響を受けてきた。
モレスキの残したレコードを聴くと、彼らの演奏は同時代のオペラに近い雰囲気を感じさせるものもある。現代ではパレストリーナやヴィクトリアは、抑揚をおさえた清澄な雰囲気で歌われることが多いから、多少の違和感があるかもしれない。
だが歌手たちも聖職者たちも、その演奏が本物だと信じて誇りに思ってきた。

だが19世紀後半は、この聖歌隊特有の様式が消えてゆく方向にあった。
先にも述べたように教皇領の各大聖堂聖歌隊の垣根は低くなっていたし、それぞれの聖歌隊の指揮者たちは、競争しあいながらも人員を確保するために協力しあったからだ。
というのも聖歌隊は人員不足であることが多かった。
システィーナ聖歌隊の定員は、ソプラノ、アルト、テノール、バスそれぞれのパートが8人ずつで、計32人と定められていた。
だがモレスキが入隊を許された1883年、システィーナの日誌によると活動中のメンバーは19人だった。
道徳観や風習の変化によりカストラートの人数が減ったため、ソプラノパートは特に優秀な人材が不足していた。

ちなみに聖歌隊員の人数は、1890年代になると32人まで復活する。
システィーナの聖歌隊には、伝統を重んじる様々な規則があったが、それが緩和されたためだ。
聖歌隊は歴史的には「聖職者の団体」だった。
だが、より高い歌唱力を求めて歌手を採用するうち、世俗のメンバーのほうが多くなっていた。
それでも彼らは全員「下級聖職者」の資格を与えられていた。
下級聖職者は1962〜65年の第2ヴァチカン会議で廃止されたが、かつては侍祭、読師、祓魔師(ふつまし)、守門などがこれに該当した。

アレッサンドロが入隊を許された時期は、規制緩和の8年前だったので、形式だけのトンスラ(カトリックの剃髪。仏教の剃髪とは異なり、鉢巻状に頭髪を残す)を受けたことになっている。
また聖職者として独身の義務があったが、こちらは形式ばかりとはいかず、こっそり妻帯しているメンバーは、バレたら聖歌隊追放の憂き目にあうことになっていた。
ただしカストラートは、聖職に就くか否かに関わらず、昔から結婚を禁じられていたのは周知の通りである。
彼らは生殖能力を失っているために、女性と肉体関係を持つこと自体が宗教的な罪となるためだ。

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