ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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1) 10代のプロデビュー

アレッサンドロの成長はめざましかった。
1873年7月、カポッチは14歳のアレッサンドロをサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の第一ソプラノに任命している。
ラテラーノ大聖堂で歌い始めた彼は、またたく間に人気を得ていった。

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂

Copyright: Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons


またカポッチが集めた声楽グループのメンバーにも加わった。
当時ヨーロッパではサロン文化が花開いていたが、ローマも例外ではなかった。
貴婦人たちは自宅の客間で夜会を催し、上流階級の友人たちを招待する。
こうした社交的な集まりには音楽が不可欠で、カポッチの雇った歌手たちもこうした機会に歌った。
彼らはふだん教会で歌っていたが、サロンでは主に流行のオペラからの音楽が喜ばれた。

このコンサート・メンバーと共に撮られた写真が残っている(→「写真など」の項参照)。
モレスキ(左下)と一緒に写っているチェザーリ(右下)とサルヴァトーリ(右上)は、このときすでにシスティーナ礼拝堂聖歌隊の一員だった。
教皇聖歌隊の歌手たちは有料のコンサートに出演することを禁じられていたが、私的な集まりで歌うことは許されていたので、サロンでは歌うことができたのだ。

この写真を見ると、モレスキとチェザーリは当時の紳士らしくエレガントに着飾っている。
こうしたスタイルは批判を招くこともあった。
ルイジ・デヴォーティによれば、

「モレスキは自分の本職をわきまえず、しばしば気まぐれといえる振る舞いをした。
演奏を終えたあとには、人々から賛辞をもらうべく、白く長いスカーフを巻いた孔雀のごとく、聴衆の間を得意気に歩くのだ」

(『「ローマの天使」と呼ばれたアレッサンドロ・モレスキ(1858-1922)』より引用。ニコラス・クラプトン氏が英訳したものを管理人が和訳)。

2)イタリア王家との親交

1878年1月9日、イタリア王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-1878)が亡くなった。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はイタリア王国の初代国王で、イタリア統一戦争を終結させ統一国家を築いた人物で「王国の国父」と呼ばれて国民から敬愛されていた(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とイタリアの統一については「リソルジメント」の項目を参照)。
国王の葬儀は盛大に執り行われたが、モレスキはそのミサで歌ったとされている。
だがニコラス・クラプトン氏は、当時モレスキがまだ19歳だったことを指摘し、国家の重要な行事にソリストとして参加したかどうか疑問を呈している。

とはいえ、モレスキとイタリア王家に長く続いた親交があったことは確かで、毎年執り行われたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の追悼記念ミサで、彼はソリストとしてレギュラーで呼ばれていた。

次期国王となったウンベルト1世(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の息子)の妃となったマルゲリータ王妃は芸術への造詣が深く、モレスキが師事したガエターノ・カポッチに音楽の手ほどきを受けていた。

20年余りのちの話になるが、ウンベルト1世は1900年に暗殺されてしまう。
このときまでモレスキとイタリア王家の関係は続いており、彼は二代目国王の葬儀のミサでも出演要請を受けて歌っている。

3) 20代のモレスキ 〜観客の証言〜

1881年の聖週間に、サン・ピエトロ大聖堂で歌ったモレスキの様子が、当時デンマーク大使の妻としてイタリアに滞在していたアンナ・リリー・デ・ヘーゲルマン=リンデンクローネ(1844-1928)の手紙に残っている。
彼女自身も、第二帝政時代のパリで人気を博した歌手であった。

サン・ピエトロ大聖堂内部

聖金曜日には、サン・ピエトロ大聖堂で素晴らしい時間を過ごしました。
教会は大変込んでいて、立つのもやっとというほどです。
(中略)私の召使はたいてい、折りたたみ式の椅子と敷物を持っていますので、私は入り口付近に座って、パレストリーナ、ペルゴレージ、マルチェッロの天上なる旋律に、深まる薄闇の中で耳を傾けました。
古いオルガンは時にきしんだ音を立てますが、独唱者の歌うグノーの『アヴェ・マリア』やロッシーニの『スターバト・マーテル』がそれを消してくれます。
男性と少年たちの合唱がソリストたちと共に歌う『The Inflammatus』(ママ)で、高声を担っていたモレスキの物悲しい歌声は、超自然的にさえ感じられました。

ラテラーノ内部

土曜の夜は、人々は夕刻の礼拝を聴くためにラテラーノ大聖堂に押しかけますが、こちらもとりわけ高潔な礼拝でした


聖週間は春分の頃であるから、アンナ・リリーが聴いた当時のモレスキは22歳であるが、40代半ばで残したレコードで聴かれるような物悲しい表現が、すでに使われていたことは興味深い。

19世紀サロンの様子

2年後彼女はサロンでモレスキを聴き、その様子を書き残している。

土曜の夜、最近カトリックに改宗したチャールズ・ブリステッド夫人のご招待を受けました。
教会以外で教皇庁の歌手たちを聴ける場所は、彼女のサロンしかありませんから、私は彼らに大変興味を持っていました。
ラテラーノ大聖堂で歌っている有名なモレスキは、丸顔のソプラノで40歳くらいかと思います。
彼の歌い方は音符のひとつひとつに涙をこめ、息継ぎはどれも溜息のようです。
グノーの歌劇《ファウスト》から「宝石の歌」を歌ってくれましたが、彼にはぞっとするほど不釣合いでした。
特に手鏡をのぞいて歌う場面では、もし彼がマルグリートなら、人は彼に「とんでもない!」と答えて差し上げるでしょう


当時モレスキは20代前半だった。
この時期の写真を見ても40代には見えないから、「宝石の歌」の難しいコロラトゥーラを歌いこなす歌唱力と、若者とは思えない深い表現力が、年齢を上に見積もらせたのかもしれない。

1902年にシスティーナ礼拝堂聖歌隊を録音したエンジニアのガイスバーグも、ソリストと指揮者を務めていたモレスキの年齢を上に見ているが、一方で引退後にモレスキに会ったハーベックは、「外見と声からはまだ若々しい印象を受けた」と述べている。
演奏中のプロとしての雰囲気と、プライベートで会話をしているときの雰囲気が異なるのは、現代の歌手においても珍しくないだろう。

「宝石の歌」は広い音域で自在なコロラトゥーラが要求されるアリアなので、若いアレッサンドロの才能を示すのに理想的であった。
歌の内容は、純粋な心を持ったヒロインが悪魔の用意したものとは知らずに宝石箱を見つけて、きらびやかな装飾品を身につけ鏡に向かい、
「ああ、この鏡に映るあたしの姿は、なんて美しいのでしょう!
この淑女の姿を彼(ファウスト)が見てくれたら、きっときれいだと言ってくださるわ!」
と歌うものである。
上流階級の人々なら皆フランス語を解したが、アンナ・リリーは特に若い時代をパリで過ごしている。
この歌詞は男が歌うには充分不釣合いだし、またモレスキの得意とする哀愁ある表現も、舞い上がる少女の心情を歌うにはあまり似つかわしくなかったかもしれない。

4) 実は多忙な教会歌手

先に引用した1881年のアンナ・リリーの手紙で、モレスキがサン・ピエトロ大聖堂で歌っていることからも分かるように、彼はラテラーノ大聖堂だけで歌っていたわけではなく、祝祭日にはほかの教会やカトリックの団体に呼ばれて演奏していた。
こうした祝祭日には、一日に複数の仕事を掛け持つこともあった。

のちにシスティーナ礼拝堂でモレスキの後輩となるアレッサンドロ・ガブリエッリは、
トラステヴェーレ(ローマの地名)のカトリック団体サンタ・マリア・デッロルトは、9月8日のミサを11時から正午にずらさなければならなかった。
12時までモレスキのスケジュールがふさがっていたのだ。
今回ばかりは、司教様も歌手の要求を呑むしかなかった

と書いている。

9月8日は聖母マリアの誕生日とされている。
ローマには聖母マリアを守護聖人とする教会がいくつもあるので、特別な日のゲスト・ソリストとして、モレスキはほかの教会からも雇われていたのだ。
サンタ・マリア・デッロルトは労働者階級の団体だったから、歌手はもっと高額な報酬を支払う依頼主を優先したのだろう。

サン・ピエトロ大聖堂のメルッツィが指導するジュリア聖歌隊においては、モレスキは報酬分の出演義務を一部のがれて、ほかで歌っていたことがある。
これは「正当な理由なく欠席することを禁ずる」という、ジュリア聖歌隊の規則に違反している。
こうした事情もあり、またライバル指揮者カポッチの秘蔵っ子でもあることから、メルッツィはモレスキを良く思ってはいなかった。
(オペラティックな宗教曲を作曲して人気を得ていたカポッチに対し、メルッツィは早くからルネッサンス期のような宗教曲らしい宗教曲を支持するチェチリアニズムを支持していた。チェチリアニズムは20世紀に入ると主流となり、ロッシーニやグノーばかりでなく、バッハやモーツァルトのミサ曲も禁止される時代が到来する。)

1883年1月、メルッツィが彼の上役であるサン・ピエトロ大聖堂の音楽監督に送った手紙を引用する。

水曜日にはスダーリオ尊者教会で華麗な歌声を披露していたのに、木曜日には突然不調でサン・ピエトロでのカテドラ祭には使えないようなできでしたが、本日金曜日にはサン・カルロ・イン・コルソ教会の葬儀でみごとに歌っておりました。
モンシニョール(=高位聖職者の称号)が完璧だと評するほどに。
これから申し上げることが不快でしたら申し訳ありません。
このような両性具有者の気まぐれに、ヴァチカンの司教座聖堂参事会が振り回されるなど、私にはとても納得できません


メルッツィは心の狭い人物だったかもしれないが、彼の手紙からは当時の人々がカストラートたちに向けていた軽視と差別意識が読み取れる。
だがもちろんメルッツィは自分の指揮する聖歌隊にカストラートたちを雇い入れていた。

5) 「ローマの天使」になったわけ

メルッツィの思惑に反して、この二ヵ月後、モレスキはシスティーナ礼拝堂聖歌隊に加わることとなる。
これには全曲上演としてはイタリア初演となったベートーベンのオラトリオ『オリーブ山上のキリスト』の成功が寄与している。

弟子の将来に期待をかけていたカポッチは、1883年の四旬節にサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂で『オリーブ山上のキリスト』を演奏することにした。
1825年にミラノのリコルディ社から出版されたイタリア・ヴァージョンの楽譜が用いられた。
モレスキが歌ったセラフィムの役は、ハイ・ソプラノのために書かれており、装飾音はハイEまで使われる。
広い音域にわたる華やかなコロラトゥーラが連続して現れ、彼の声楽的技量を示すにはうってつけの曲として選ばれた(このアリアが要求するテクニックは、バロックオペラの見せ場となる超絶技巧の難曲と同様のものである。
 モレスキの歌唱技術に関してはしばしば、ロマン派全盛の時代に教育を受けたために、バロック時代のヴィルトゥオーゾたちの驚嘆すべきテクニックには遠く及ばないと言われてきたが、そうした見方はどうも早合点であるようだ)。

『オリーブ山上のキリスト』におけるモレスキの歌唱は大変好評で、ローマの人々は彼を「ローマの天使(L'angelo di Roma)」と呼ぶようになった。
彼の歌った役セラフィムは、「熾天使(してんし:最高位の天使)」を意味するからだ。

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