ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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1) 20世紀の到来と新時代の足音

1902年2月、ペロージはレオ13世の御前で、今後システィーナ聖歌隊にカストラートを雇うことを禁止する法令を何としても得ようとしていた。
一方ムスタファは己の進退をかけて改革を阻もうと、再度辞表を出した。
だが今回は、辞表は突き返されることなく、教皇はムスタファの肩書を「名誉終身指導者」に変更した。
「終身指導者」の上に冠された「名誉」の意味は「名誉教授」と同様で、実際には退任することを示す。
1902年4月、グラモフォンの録音技師がヴァチカンを訪れたのは、こうした激動の時期だった。

教皇の肉声を録音したいとヴァチカンを訪れたグラモフォンのレコーディング・チームが、結局システィーナ礼拝堂聖歌隊を録音することになったのは「録音にいたる経緯」に書いた通りである。

最新技術に懐疑的な教皇は、自分の声を録音することについては断ったものの、聖歌隊の録音を許可した。録音中には、機材のショートから引火し、驚いた聖歌隊員たちが出口に殺到し将棋倒しになったというから、当時の人々にとって不安な最新装置だったことは確かだ。
とにかく火は大事に至らず消し止められた。

録音場所に選ばれた豪華なサロンは、教皇の耳に歌声が聴こえるほどの距離にあった。
そしてその歌唱は、モーツァルトであろうと19世紀の作曲家であろうと、同じように劇場様式で歌われている。これこそチェチリアニストのもっとも嫌う演奏だ。
清澄な演奏を求める新勢力はついにヴァチカンの中枢にまで及んだが、その時期にこうしたレコードが残されたことこそ、聖歌隊とその周囲の人々の回答だったともいえる。

このとき録音された曲たちは近い将来、永久にレパートリーから外される危機にさらされていたからこそ、後世に伝えたいと願ったのは歌手たちだけではなかったのだろう。

2) ガイズバーグが記したレコーディング風景

1902年のレコーディングセッションで中心的役割を果たしたレコーディング・エンジニアのフレッド・ガイズバーグは、このときのことを日記に書き残している。

日記はガイズバーグが存命中の1944年に発表されたのち、死後30年経った1981年にも『フレッド・ガイズバーグの日記』と題して公開されている。
両者の内容は完全に一致するものではない。1981年のほうが原文に忠実で、1944年のものはガイズバーグ自身が公開に際して推敲を加えたものだ。
書き換えられたのは、
「我々は教皇の男声合唱団として名高いシスティーナ聖歌隊を録音した。ソプラノパートを歌う男たちは皆、少年時代に手術を受けた者たちだ」
という記述。こうした習慣に抵抗を感じる読者のために、言い回しを変えたようだ。

以下に、1944年に発表された文章を引用する。

我々がレコーディング機材をセッティングしたのは、ホテルの一室などではない。ヴァチカン宮殿に案内されたのだ。そこは壁という壁が、ティツィアーノ、ラファエロ、ティントレットに埋め尽くされた素晴らしいサロンだった。
その床の真ん中に我々の汚い機材を置き、3つのラッパというか管の集合体のようなものを取り付けて待っていた。
マイケリスは教皇の甥であるスイス衛兵隊長ペッシ氏の知人だったので、込み入った根回しに駆け回り、その甲斐あってシスティーナ聖歌隊を録音できることになったのだ。
もしかしたら教皇ご自身の声も録れるかも知れない。
この聖歌隊は、ボーイソプラノではなく成人した男性ソプラノが歌うために、その音色の美しさで有名である。彼らの歌声は少年たちより硬い音色だ。
また、パレストリーナの音楽を保存していることでも名高い。
聖歌隊に男性ソプラノを採用する習慣は、レオ13世の時代に廃止された。今日聖歌隊に残っているのは、慎重に選び抜かれた、自然のままでソプラノやアルトの声を持つ男たちである

3) ガイズバーグが記したモレスキの描写

録音したころのモレスキ

私が特に覚えているのは、薔薇色の頬をした聖歌隊指揮者で、ソプラノ独唱者のプロフェッサー・モレスキだ。
彼は60歳くらいに思えたが、驚くほど元気で若々しかった。
たくさん家族がいることを自慢していたのが興味深かった


アレッサンドロはこのときまだ43歳だった。
カストラートはいくつになっても少年のように若々しいなどという通説は当てにならないのか?(身長が伸びすぎるという説も彼には当てはまらない)
ソリストだけでなく指揮者を務めるなど指導的立場にあったからその貫録で年上に見られたのかも知れないし、クラプトン氏の著述には、カストラートの肌は大人になってもきめのこまかい思春期前の状態を保っているため、歳をとるとかえって細かいしわが増え、そのせいで実年齢より上に見られたのだろうと書かれている。

また、想像できることだが「たくさん家族がいる」というのは、アレッサンドロ自身の家庭という意味ではない。彼には兄弟姉妹が大勢いたから、彼らの子供たちも含めて大家族だと話したようだ。
親戚がたくさんいるのが自慢話になるという文化的背景が当時はあったのか、それともイタリア人にはあるのか、良く分からない。
「妻帯を禁じられているけど孤独じゃないよ」と主張したかったのかと勘繰るのも、失礼かも知れない。

なお、「聖歌隊指揮者でソプラノ独唱者」の記述から後年、モレスキは聖歌隊指導者(ディレットーレ)との誤った認識が広がったが、彼が務めたのは「ディレットーレ・デイ・コンチェルティスティ(Direttore dei concertisti)」=独唱者のリーダー、トップ・ソリストとも言うべき職であって、聖歌隊楽長だったわけではない。
ただこの録音で指揮を振っているのは事実である。
システィーナ聖歌隊ではムスタファが留守のときなど、ベテランメンバーが指揮をすることがよくあったようだ。

4) 1902年に録音された曲

1902年に録音された曲は、TT盤で確認できるのは10曲、そのうち3曲はopal盤には収録されていない。
モレスキのソロを確認できる4曲は収められている。

マトリクス番号順に並べると以下のようになる。通常マトリクス番号は通常、録音順に振られるものだ。

  曲   名   演 奏 者

カタログ

番号

マトリクス

 番号

 
Laudate pueri Dominium アントニオ・コマンディーニ、
  合唱(少年たちによる)
 54762  1750b opal無
Ave Verum Corpus
 (メルッツィ)
合唱  54772  1751b  
Je crois entendre encore プリモ・ヴィッティ  54763  1754b opal無
Crucifixus アレッサンドロ・モレスキ  54764  1755b  
Tui sunt coeli 合唱  54765  1757b  
Domine Salvum Fac モレスキ、合唱  54766  1758b  
Ave Verum Corpus
(モーツァルト)
合唱  54767  1759b  
Intonuit de coelo 合唱  54768  1760b opal無
Et incarnatus est
   / Crucifixus
モレスキ、合唱  54770  1762b  
Ideale アレッサンドロ・モレスキ  54758  4374a  
モレスキは初め、レコーディングに乗り気ではなかったそうだ。そのためかは分からないが、先鞭をつけたのはテノールのアントニオ・コマンディーニと合唱の少年たち、曲はラテラーノ大聖堂の聖歌隊指揮者だったカポッチの宗教曲である。
カポッチはモレスキが少年時代の師だった人物だが、1902年には既に他界している。

続いて、聖歌隊員たちの合唱で、サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊指揮者だったメルッツィ(彼もこのとき既に他界)のAve Verum Corpusが録音されたようだ。

続くプリモ・ヴィッティもテノールで、録音したのはオペラアリアだ。
「Je crois entendre encore」はジョルジュ・ビゼーのオペラ《Les Pecheurs de perles(真珠採り)》の中のアリアで、「耳に残るは君の歌声」という邦題で親しまれている。

モレスキの人生初録音となったCrucifixusはこのあとで出てくる。

続く4曲は宗教的合唱曲だがうち2曲でモレスキがソプラノのソロを歌っている。

このとき録られたもうひとつの世俗曲がトスティの歌曲Idealeだ。この曲だけマトリクス番号が異なる理由は不明。今後調べて行きたい。
力強く歌ったCrucifixusとは反対に、優雅な表情の曲を選んだのかもしれない。

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