ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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モレスキの弟子の一人、ジョヴァンニ・ガヴァッツィは、師を評して「同時代の歌手の中でもっとも偉大な才能を持った人物」という言葉を残している。
「歌唱様式が混乱してしまった時代にあって、比類なき表現力を発揮した」と。

若い頃から「ローマの天使」と讃えられ、フランスのリヨンにも歌いに行き、またイタリア王国の二人の国王の葬儀でも歌い、グラモフォンの録音ではほかの独唱者と異なりいくつものソロ・レコーディングを残すなど、同時代においては明らかに名歌手としての評価を得ていたにもかかわらず、今日における彼の評価は、必ずしも好意的なものばかりとはいえない。

1)装飾音−アッチャカトゥーラ

その理由を考えてみるに、おそらく現代の聴衆が耳慣れない唱法のひとつに、特殊な「アッチャカトゥーラ(短前打音)」が挙げられるだろう。
これは、任意のピッチをアタックするのに、1オクターブ近く下の音からスライドして歌うことをさして呼んでいる。
現代の声楽では好まれないばかりか、そんな歌い方は間違っていると認識している学習者も多いはずだ。

モレスキはすべての音にこの「装飾」を加えるのではなく、テキストを強調したい場合や、曲想に応じて使っている。
これは、彼が学んだサン・サルヴァトーレ教会附属音楽学校でも、歌詞や旋律を強調する手段として、当時教えていたテクニックだった。

また「3)1878年に出版されたパレストリーナの楽譜」でふれるように、19世紀に出版された楽譜には「アッチャカトゥーラ」の指示も見られる。
次項で述べるように、こうしたテクニックはシスティーナ礼拝堂の音響に関係して発展したものだった。

1902年にヴァチカンでテノールの独唱を務めていたアントニオ・コマンディーニも同様のテクニックを使っていたといわれる。
管理人は、彼がソロを務めるガエターノ・カポッチ作曲「Laudate pueri Dominum」をTruesound Transfers盤で聴いた。気を付けて聴けば確かに下からポルタメントをかけて歌っている箇所もあるが、モレスキのように目立つ歌い方ではなかった。実音がテノールより1オクターブ高いソプラノのほうが、スライドする音域が広くなるので、分かりやすいのかもしれない。
コマンディーニの歌い方は、20世紀前半の録音ならば特に珍しいものではないと感じた。システィーナ礼拝堂の歌手に限らず、20世紀前半の歌手は現代に比べポルタメントを多くかけているようだ。

2)音響空間としてのシスティーナ礼拝堂

システィーナ礼拝堂には大変ゆたかな共鳴があり、前打音として付加された低音は、実際に楽譜に書かれた高音と混ざり合って聴こえることになる。
それによって、高域の音色に深みを与えることができる。

しかし録音された音源には、残念ながらほとんど残響がない。
これは、次項「当時の録音技術について」で述べるように、当時の録音技術では、マイク(というより「集音ラッパ」と呼ぶべき形状のもの)を、かなり歌手の口元に近づけなければ、音を拾うことができなかったためだ。
現在の録音のように、アンビエント用のマイクを天井に向けて設置し、あとでミックスするなどできるはずもない。

また、1904年の録音は非公式に行われたので、ローマ市内の別の場所にあるサロンが選ばれており、ここは共鳴の多い空間ではなかった。
普段、礼拝堂や大聖堂で歌っていたモレスキにとって、歌いにくい空間だっただろうか?
だが彼は教会だけで歌っていたわけではなく、上流階級の人々が集まるサロンにも招かれて歌っていた経験がある。

3)1878年に出版されたパレストリーナの楽譜

19世紀のシスティーナ礼拝堂聖歌隊はどのような演奏をしていたのだろうか。
彼らの歌唱様式を想像する手助けになる資料が存在する。
1878年に出版されたパレストリーナの5声のモテット「Peccavimus」の楽譜である。タイトルには、

「システィーナ礼拝堂の伝統的歌唱に従った演奏表現つき。
上記礼拝堂聖歌隊終身指揮者にして、ローマ音楽界を牽引するマエストロ・カヴァリエーレ・ドメニコ・ムスタファ氏による」


と附されている。
ムスタファは類い稀な美声を誇るソプラノ歌手で、指揮者・作曲家としても活躍した。
20代のモレスキをシスティーナに抜擢したのもムスタファであり、モレスキは彼からも多くを学んだ。

上記の楽譜には、様々な演奏指示があらわれる。
ピアニッシモからフォルテッシモまでの強弱記号
クレッシェンドにディミヌエンドなどのディナーミクの指示
ピケッターレと呼ばれる強いアクセント
ポルタメント
ポルタメントは声を「はこぶ」という意味で、ひとつの音から別の音に移るとき、なめらかにスライドする歌い方である。

さらに、
「sottovoce e legato」(静かな声でなめらかに)
「con forza」(力強く)
「con slancio」(情熱的に)
といった、いかにもロマン派音楽的な演奏指示が楽譜じゅうにあふれている。
そして現代のリスナーには評判のよくない、
アッチャカトゥーラ(acciaccatura)
の指示も随所にみられる。

こうした演奏指示は当然ながらパレストリーナのオリジナルのスコアには存在しない。
多くの曲想記号は、当時流行していたオペラなどの世俗音楽の影響を少なからず受けたためである。

またアッチャカトゥーラの技法は、エコーの多い礼拝堂の空間で、多声音楽の各パートの旋律をきわだたせる効果があったので、伝統的に付加されていった。
当時の聖歌隊員にとってこうした演奏法は、各時代の聖歌隊指導者から次の世代の指導者へ、職人技のように脈々と受け継がれてきた伝統芸であって、決して当代風や世俗風というものではなかった。

現代では、宗教音楽はオペラとは異なる清澄な様式で演奏されている。
だが我々も19世紀の人々も、ルネッサンス期の演奏を聴いたことがないのは同じであるともいえる。

4)19世紀前半:オットー・ニコライの報告

オットー・ニコライ(1810-1849)はドイツの作曲家で指揮者。
19世紀前半の記録になるが、ローマを訪れたニコライはシスティーナ礼拝堂聖歌隊の演奏について次のように述べている。

「歌手たちは装飾や経過音を加えたりアゴーギグをつけるなど、ソロパートをかなり自由に歌う裁量が与えられている。
こうした慣習は、この礼拝堂のもっとも有名な部分であり、同時に弱点でもある。
というのも最近作曲された音楽には、たいてい華麗な装飾が似合わないうえ、彼らの装飾はしばしば過剰なのだ。
しかしそれでも、その特別な様式で演奏されるソロパートは言葉であらわせないほど美しい」


即興で装飾を加える習慣は、パレストリーナの時代から存在した。
装飾の様式はルネサンス期とは異なっていただろうが、システィーナ礼拝堂の伝統として受け継がれてきたのだ。
それは高度なテクニックを要し、システィーナの「名物」であったが、いつでも美点であったわけではないようだ。
19世紀のロマン派のスタイルで作曲された最新の聖歌には適さず、旋律本来の美しさを損なってしまうし、ルネサンス・バロック期の音楽であっても、重唱において複数の歌手が一緒に即興をおこなった場合、競い合う彼らの即興は時に不協和音を生むこともあったのだ。

モレスキが聖歌隊に加入したころも、装飾を付加して歌う習慣は残っていた。
そのひとつが、「コントラップント・アッラ・メンテ(contrappunto alla mente)」で、和声を踏まえたカデンツァを挿入してゆく装飾法だとされる。
ちなみに「contrappunto」は「対位法」を意味する。

5)録音で聴ける音域

残された書簡などの資料によると、モレスキのレパートリーはメゾ・ソプラノからコロラトゥーラ・ソプラノのアリアまでに至っており、20代ではハイEまで出していたようだが、現在レコードで聴くことができる歌声は、下がヘ音記号上第一間B♭、上がト音記号上第二間B(ドイツ音名のハイH)までの2オクターブ超の音域である(音名表記はすべて実音。以下同じ)。

ただし初期録音では、録音時の回転数が常に78回転とは限らなかった。だがここでは、録音時と同じ回転数で再生された音源がCD化されたと仮定して、以下話を進めていく。

最低音は「Oremus pro Pontifice」の中間部のソプラノ・ソロにあらわれる。弱起の音で一瞬ではあるが。
管理人はこの曲のスコアを見たことがないのだが、8分の6拍子だとすれば8分音符の短い音で、低域の発声法を紐解くにはあまり参考にならないかもしれない。
モレスキの低音域での声質が分かりやすいのは、ロッシーニの『小荘厳ミサ曲』より「Crucifixus」だろう。
この曲はミドルCのロングトーンで終わっている。

最高音は「Ave Maria」にあらわれる。音量をおさえた透明感のある美しい音色だ。
フォルテでの高音が聴けるのは「Domine Salvum Fac」の最後で、ハイBより半音低いB♭ではあるが、ロングトーンを堂々と歌い上げて曲を締めくくっている。

主要な独唱曲の音域は以下の通り。
「Ave Maria」
  ト長調、ト音記号下第一間D〜上第二間B(ハイH)。
「Crucifixus」
  変イ長調、ト音記号下第一線C〜上第一間G。
「Ideale」
  イ長調、ト音記号第一線E〜第五線F♯。
「Preghiera」
  変ホ長調、ト音記号第一線E♭〜上第一間G。
「Pie Jesu」
  ト短調、ト音記号第一間F〜上第一間G。
「Hostias et Preces」
  ヘ長調、ト音記号第一間F〜上第一間G。

こうして録音された独唱曲の音域を見ると、ほとんどメゾ・ソプラノの音域に収まっている。
録音された曲は宗教曲か歌曲だからだろう。宗教曲や歌曲では、オペラ・アリアほどの高音が書かれることは稀である。
1902年と1904年というチェチリアニズムが吹き荒れる聖歌隊の状況を考えると、オペラ・アリアを録音するわけにはいかなかったとも考えられるし、1902年ならば3分超、1904年でも4分半程度という録音時間の制限のためかもしれない。

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