ローマの天使 アレッサンドロ・モレスキ

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1) レオ13世司祭叙階50周年記念ミサ

1893年コロンビア万博の様子

1892年、ムスタファは万博でシスティーナ礼拝堂聖歌隊に演奏を披露してほしいという打診の手紙を受けていた。
1893年にシカゴで開催された「コロンビア万国博覧会」は日本を含めた19ヶ国が参加した万博で、コロンブスのアメリカ大陸発見400周年を記念して開催されたので、このような名前がつけられた。

だがこの依頼は、「慎み深さと礼儀正しさのため」そして「利益を受けることへの懸念のために」断られた。
1894年ロンドンで開催された「芸術と科学の博覧会」からも出演依頼があったが、こちらも同様に断っている。
聖歌隊の有力な後ろ盾だったモンシニョール・シッラが教皇の側近でなくなり、またチェチリアニズムが台頭してくる中でムスタファは神経を尖らせて、聖歌隊が長期間、礼拝堂を留守にして外国へ行くことを望まなかったのかも知れない。

だが聖歌隊員たちにはもっと身近で大きなイベントがあった。
1893年のレオ13世の司祭叙階50周年記念のミサである。
システィーナ日誌には2月19日付けで記念ミサの様子が記されている。
このときセグレタリオ・ポンタトーレの職にあったジョヴァンニ・ヴェルジオの書いたものだが、聖歌隊内部の人間の文章だと考えると、ずいぶん自画自賛しているように感じる。

「ミサの幕開けは、この上なく卓越した指導者ムスタファ氏によって新たに作曲された『Jubilate Deo』で、教皇聖歌隊の歌手たちが詠唱した。
その誠実な歌唱は驚くべき素晴らしさで、厳粛な儀式と調和した荘厳さは、ローマの卓越した歌い手だからこそ為し得る出来栄えであった」


チェチリアニストたちの批判が次第に増してゆく時代背景を反映して、このような言い回しになったのだろうか。
確かに聖歌隊の近くにいる者はその不穏な空気を察していたようだ。
シッラの後を引き継いで新しく教皇宮殿の家令になったモンシニョール・デッラ・ヴォルペがムスタファへ、この年の10月7日付で送った手紙には、
「時の流れにあらがうことなく、私を信用なさって下さい。
 私が申し上げた地位を保つことができれば、それは先生にとって素晴らしい業績となるはずです」
と書かれている。

2) 正統な宗教音楽とは? オーセンティックな演奏とは?

翌1894年7月6日、儀礼聖省(Sacred Congregation of Rites)は法規に「"レオ13世の賛同を得た"宗教音楽のための規律」を加えた。
ローマ教皇庁は聖省または単に省と訳される、それぞれ枢機卿が率いる議会のような組織を持っている。
儀礼聖省は1588年にシクトゥス5世(在位:1585−1590)によってつくられ、1969年、パウロ6世(在位:1963−1978)によって「列聖聖省(Congregation for the Causes of Saints)」と「典礼聖省(Congregation for Divine Worship)」に分けられたことからも分かるように、礼拝その他の宗教儀式と列聖を管理していた。

清廉潔白な教会音楽を求める風潮が次第に強くなり、締め付けが厳しくなってきたことがうかがえる。
ある種の伝統は退廃し腐敗していると見なされる時代になったのだ。
そういった伝統には、カストラートを聖歌隊に雇い入れることも含まれている。

もしシスティーナ礼拝堂聖歌隊までもがチェチリアニズムの思想に侵されることになったら、そのときカストラートである自分はお役御免になるかも知れないという危機感から、1896年、モレスキはサン・ピエトロ大聖堂とラテラーノ大聖堂の両方の聖歌隊にも正式なメンバーとして名前を連ねる許可を得ていた。

ムスタファは16年前の1878年にパレストリーナのモテット「Peccavimus」の演奏指示付楽譜を出版したが、この十数年の間に、どのような伝統を「正統」と見なすのかが変化していた。
それでまた、彼自身が確信する「由緒正しい様式」で編集したパレストリーナの「Peccavimus」を、ローマの教会音楽の楽譜出版社「パチフィコ・マンガネッリ社」から、「真の教義のための聖省の支持の下に出版される定期刊行物」というシリーズの第一巻として出版した。
マンガネッリの序文には、「宗教音楽は今や退廃し、時には悪徳と呼べるようなことさえ行われている」ために、「宗教音楽とはどのように演奏されるべき芸術であるか」の一例を出版する必要があったと述べられている。
だがその楽譜はチェチリアニストの唱える清澄な宗教音楽とは異なる様式で、音楽的な表現力が重視されたものだった。
それでもこのシリーズは教皇の支持文書を載せ、当時の聖チェチーリア音楽院院長の推薦文書まで得ている(聖チェチーリア音楽院は現代でも有名な国立の音楽院で、チェチリアニズムとは何の関係もない)。

1878年の「Peccavimus」については「モレスキの歌唱様式について」のページの「3)1878年に出版されたパレストリーナの楽譜」で触れた。

当時の音楽家の中には、「歌唱様式が混乱した時代」と表現している者もある。
ジョヴァンニ・ガヴァッツィは、「今や、最高の古典音楽が最低のグロテスクなものとごちゃ混ぜにされている」と述べている。
またモレスキの活躍について、「歌唱様式が混乱する中、そのような時代に対して、比類なき表現力を見せつけた」という言葉を残しているが、録音を聴けば、1世紀以上の時間的隔たりを超えて、様式の如何を問わず、彼の歌が聴き手の心を揺さぶることが分かる。

クラプトン氏はチェチリアニズムの主張する宗教音楽について、感動のない音楽から信仰心は生まれないと述べているが、儀式のための音楽だからこそ、心の深みに届く表現が必要かもしれない。

現代における古楽復興においても、その初期には「正統的=オーセンティック」な演奏が目指されたが、今では過去の様式研究と、今の聴き手を感動させる演奏の両立が求められている。

3) 教皇様のお気に召すのはロマンティック?

1896年、イタリアのアレッツォで開催された「宗教音楽に関する会議」では、システィーナ礼拝堂聖歌隊にとっては不幸なことに、多声音楽とグレゴリオ聖歌の演奏について「伝統的な習慣によるアプローチ」が厳しい非難にさらされた。
それでも、チェチリアニズムに染まることないムスタファが依然として地位を保っていられたのは、教皇レオ13世の好みによるところが大きい。
聖歌隊日誌が伝えるところによると、

4月13日のモテットの演奏に、教皇聖下が満足されなかったと、ヴォルペ殿が伝えられた。
この日のプログラムは全てパレストリーナの合唱曲で、独唱曲がひとつもなかったことが原因である。
パレストリーナの純粋な様式で作曲された深遠な音楽は、聴衆がプロの音楽家でない場合、満足して頂けないことも多々ある。
上記の事情を踏まえて、ボエツィがマエストロ・プロ・テンポレとして、マエストロ・ムスタファにローマへお戻り頂けないか、手紙を書いた。
彼の素晴らしい指揮のもとで、彼自身の作曲したモテットを演奏するためである。

4) ムスタファが選んだ後継者

ロレンツォ・ペロージ

上記の日誌によると、この時期もムスタファはモンテフェルコへ帰っていたようだ。
彼が留守のあいだ聖歌隊を指揮したのは、カストラートのチェザーリや、バスのカルツァネーラ(1904年に録音されたOremus pro Pontificeの作曲家)、そしてパスクアーリといった年長の隊員たちだ。
非難が集中した聖歌隊の演奏は、ムスタファの指揮ではなく、主にこうしたほかのメンバーの指揮による演奏だったのだから、ムスタファが聖歌隊をしっかりと指揮していれば、この時期の多くの批判はまぬがれることが出来たかも知れない。

だが彼は高齢で、終身指導者といえども終身仕事を続けることには不安を感じ始めていた。
このころにはローマの3つの大聖堂の聖歌隊指導者たちは相次いで他界している。サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のバッタリアは1891年に、サン・ピエトロのメルッツィは1897年、そして学校時代にモレスキの師であったラテラーノ大聖堂のカポッチは1898年に世を去った。
1898年3月14日、ムスタファは聖歌隊入隊50周年を祝されたが、それから間もなくして自分の後継者について考え始めた。

だがローマに適任者がいるとは思えなかったムスタファが、悩んだ末に白羽の矢を立てたのは、彼自身より43歳も若い聖職者の作曲家ロレンツォ・ペロージ(1872-1956)だった。
ペロージは20代という若さで作曲家としての名声を確立し、当時はヴェネチアのサン・マルコ大聖堂で音楽監督の任にあった。


サン・マルコ大聖堂


1898年12月15日、26歳のペロージは教皇レオ13世に謁見し、正式に共同の終身指導者に任命された。
ムスタファは引退したわけではなく、まだその地位にあったので、しばらくの間システィーナ礼拝堂では終身指導者が二人いるという状況になった。
名目上は同じ地位とはいえ、年齢と経験には大きな差があったので、ムスタファはペロージを助手のように思っていた。

ローマには伝統を保持する自信と誇りがあったので、ほかの土地から来た“部外者”がシスティーナ礼拝堂を率いるなど前代未聞だった。
世論は冷たく、新聞各社は無視を決め込んだので、大して報道されることもなかった。

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